冷たい風が頬を刺す。北方に位置する街からほどなくして見えてくるこの海岸線は、一行が休憩の口実として用いるにはちょうど良い距離にあった。
太陽はあまり高くないが、日が暮れるにはまだ早い。だが、露出した皮膚が寒さを訴えるところを見るに、海水浴には適していないことが窺える。それでも、若者たちは靴を脱いで海水に足を浸けている。見ているだけで震えそうなのだが、そう思うのは歳のせいかと思い直してほんの少し、ほんの少しだけ、バルバトスは大人であることを後悔した。
寒さに打ち勝てないからではない。無邪気に海へ飛び込めないからでもない。そこにいる、小さな王様の笑顔を大切に守ることを優先してしまう。そんな性分を、爪の先ほどの欠片分だけ後悔したのだった。
彼の笑顔が好きだった。少しずつ柔らかさを取り戻していく、少年らしい笑みをバルバトスは愛していた。バルバトスが愛してやまない、ヴィータの本質をありったけ浮かべたような笑みだからだった。愛するきっかけとするにはあまりにも自然な動機で、愛さない理由がない。彼にとっては守られるべきものであり、バルバトスにとっては守るべきものであった。それだけのことに過ぎなかった。思いつく限り並べた理由の、そのどれもが博愛の範疇を出ない。そう思っていたのだ。
それがどうした。蓋を開けてみれば、なんとも酷い有様ではないか。
仲間として彼個人を失うことを恐れていたはずなのに、今は一人のヴィータとして、彼の中から自分が失われることを恐れるようになっている。見ないふりをするのは簡単だ。けれども、惚れた方が負けなのだ。これまでバルバトスが経験してきた数多の恋モドキたちが今、バルバトスが抱いた愛の踏み台にされている。どうにも胸が痛かった。
本気の恋を向けられたことはある。己の容姿には自信しかない。口先の愛を奏でていた唇も、擬似的な熱情を送っていた瞳も、伸ばされた手を受け入れるだけだった手のひらも全て、彼を愛するまでは間違いなくどれもが「本物」だったのだ。それが、今ではただの技術に成り果ててしまったのだから、愛というものは恐ろしい。
自分を呼ぶ声に断りの返事をして、バルバトスは砂浜の上から立ち上がった。パラパラと落ちていく砂は、暮れに向かう陽の光を浴びて輝いている。水着と違い、服のしわや折り返しに大量の砂が残っていて、その未練がましい姿が妙に己と重なって見えた。
残った砂まで綺麗に払いのけると、バルバトスは浜辺を南に向かって歩いた。「インスピレーションが湧いたから、ちょっと一人になりたい」そう言えば、それを聞いたパイモンが快く「見張り」を引き受けてくれたのだ。
見張りなどいらないのかもしれない。けれど大人は、自然と若者たちを見守ってしまうものだ。パイモンは、バルバトスのそれを正しく理解してくれる存在だった。今回のメンバーに彼がいたことは、バルバトスにとって幸運とも言うべきものだったのかもしれない。
一人になりたいと思っていた頃合だった。そう遠くない場所にある岩陰にしゃがみこんで、バルバトスは懐に手を伸ばした。体温と同化した、乾いた感触が指に触れる。取り出したのは、しっかりと封のされた手紙だ。
「こうして流すのは、そろそろ五回目になるか」
海水に浮かべたそれは、瞬く間に水を吸ってそこに載ったインクを溶かした。その瞬間を見届けると、肩の荷が下りたような気になるのだ。文字にこめられた感情が、じわりじわりと殺されていく。愛に溺れて窒息死している、己を見ている気分にもなる。そうして死んだ手紙たちが、ぷかぷかと沖へ漂いながらゆっくりと海の底へ沈んでいくのを眺めるのは、一種の自傷行為とも言えるだろう。だが、この危ういものを抱えたままでいることが最も危険なのである。
リスクは殺した。これで、いつものバルバトスだ。
「……戻ろう」
少し長く居すぎてしまった。
砂に足を沈ませて、バルバトスは立ち上がった。
「大丈夫か?」
「うわ、びっくりさせないでくれよ」
「悪いね、あまりに遅いもんで。ソロモン王がお探しだぞ」
「そこは上手くごまかしてくれないと」
「お花をつみに行ってますってか?」
「それ、ソロモンには伝わらないと思うけど」
岩陰から姿を表したのはパイモンだった。話を聞くに、どうやら全員が海から上がり終えたらしい。まだ戻らないのか、と問うパイモンに、もう戻るところだったよ、と返した。
砂で作られる足音は、波にさらわれて聞こえない。視線の先にいる数名の仲間たちも、その中心に立つソロモン王も、まだ誰一人としてバルバトスに気づいていない。バルバトスが払い落としたもので形を作って遊ぶ様子は、自分との違いを示されているようだった。そして同時に、やはりそれがどうしようもなく愛しいもののように感じた。どうかそのままで。どうかそのまま、そちら側にいてくれと懇願する感情に潮風が容赦なく攻撃する。しみた傷口は、思いのほか大きかった。
「それで、結局のところ吟遊詩人殿はどういったご用事であちらに?」
数歩もしないうちに、パイモンがそう切り出した。
「どうって、何がだい?」
「おっと、しらばっくれるとは思わなかったな」
睨みつけると、参ったと全身で表現するパイモンの姿が見えた。全くもって本心からのものだとは思えないその仕草を、さらにじろりと睨みあげる。パイモンの思惑を読み取ることは不可能に近い。きれいな目に睨まれちゃたまらないな、と女性を口説くときのスタンスでこられてはこちらの方がたまったものではない。少しも堪えていないところが食えないやつだった。
「聞き方がわざとらしいんだよ……人の秘密を暴こうだなんて、悪趣味だなキミも」
「人聞きが悪いぜ。すこーし手伝ってやろうと思ってるだけだってのに」
「結構だ。自分のことは自分でどうにか出来る」
「そうやって、押し込めるのは良くないぜ」
「なんのことだか」
「本当は好きなんだろ。手紙まで書いたくせに」
どこから見られていたのかは知らないが、どうやら胸の底の底に仕舞っているものすべてが見透かされているようだった。動揺で乱れた鼓動が、体を内側から食い破るように騒がしくなる。酸素が急激に足りなくなったのか、上手い返しが見つからない。一介の詩人の恋ならまだしも、守るべき王に愛情を抱いているなんて知れたら。しかも、パイモンにとっては友人の孫だ。なにもかもを知られてしまっていたとしても、この長い旅が終わりを迎えるまでは目を逸らしていたい。
声が震えているのは、寒いからだ。泣きそうなのは海風を瞬きせずに浴びているからだ。二人に気づいたソロモンが、なにも知らずに手を振っているのが、今は無性に胸を抉った。
答えさえ言葉にしなければ未確定なままだと信じている。まだ、まだと先延ばしにしていることで自らの首を締めていることも分かっている。けれどバルバトスは、こう答えるしかなかった。
「さあ、どうだったかな」
(20200430)
藤代のソロバルのお話は
「冷たい風が頬を刺す」で始まり「さあ、どうだったかな」という台詞で終わります。
#こんなお話いかがですか #shindanmaker