子どもに戻れない君へ

 

 

 バルバトスが目を覚ましたのは、おそらく偶然だった。眠りが浅かったわけではないからだ。夢を見た記憶もなく、強い眠気に襲われるがままに眠ったわけでもない。少し酒は飲んだが、さほど酔いが回っていたわけでもなかった。強いて言うなら、安堵感が原因だろうか。安堵、というものがこういう感覚であることを、バルバトスはやっと理解することが出来るようになっていた。メギドであった頃には無かった感情を、ヴィータとして生きた十数年で学んだバルバトスだが、こうも大きな安堵感というものを経験したことはない。裏付けるように、あたりはしんと静まりかえっていた。
 バルバトスは窓の外を見た。星々がきらきらと輝いている光景を眺め、記憶にある夜空と寸分も変わらないそれにニコリと微笑んだ。そして昨日のことを思い出して、次は小さく息をこぼしながら笑った。
 星の降る夜。破滅の予言を乗り越えた祝福の朝。世界が歓喜に湧いた。生きる希望に溢れたヴィータたちを、バルバトスは赤子を見るような瞳で見つめた。長い時を生きた彼にとって、ヴィータは誰も彼もが愛しい存在であったのだ。
 月を美しく思ったのはいつぶりだろうか。人々は口を揃えてそう言った。赤い月はソロモン王の活躍により砕け散ったのである。それを知るヴィータが世界に何人いるかは定かではないが、ソロモン王はきっと「みんなが知ってくれているだけで充分だ」と言うのだろう。
 バルバトスは、そんなソロモンのことを少しばかり心配していた。なんといっても、彼はまだ子どもだ。最初に彼に召喚されたときに飲み込んだ言葉を、バルバトスは忘れていなかった。
「まだ子どもじゃないか」
 それを口にしようとして、慌てて口を噤んだ。場の混乱に乗じたためか、それを悟られることはなかったのが幸いである。そうしてバルバトスは、久方ぶりに自身の認識のズレを修正することになった。
 ヴァイガルドにて、初めてメギドとしての力を奮い終えた戦闘後。改めて名を名乗った王は、バルバトスから見てやはり子どもであった。同行していたガープやマルコシアスよりもさらに若い。が、それが彼を子どもだと認識させる直接的な要因ではなかった。
 マルコシアスたちを見ても、ましてやあの、子どもの化身のようなシャックスを見ても、バルバトスは彼らを子どもだとは思わなかった。どんな姿をしていても、彼らは元メギドである。そう、追放メギドだ。そういう意識が、知らず知らずのうちに先行していた。長命のバルバトスからすればブネですら子どものようなものであるが、それ以前に彼らは皆「メギド」であり「ヴィータ」ではない。だからソロモン王を見た時に、彼を「子どもだ」と思ったのである。
 メギドを従える王としての彼は、バルバトスが今まで世界各地で見てきた「ヴィータ」と何一つ変わらなかった。朝から夜まで歌って踊って喜びに溢れた表情を浮かばせていた、力なきヴィータと同じ存在なのである。その中で、彼は少しばかり特別な力を持った存在なのだ。ただ、それだけだ。
 しかし、ソロモンはそれを背負いすぎている節がある。バルバトスはそれを危惧していた。多数のメギドを従える力と、それに伴うハルマゲドン阻止の使命など、ヴィータの子どもが背負うには重すぎる。だが、彼はもうその運命から逃れることは出来ないし、逃れることだってしないだろう。彼と旅をしたバルバトスの経験がそう言っている。
 あの子は強い子だ。王にふさわしいとさえ思っている。しかし、やはり、彼はヴィータなのである。バルバトスが愛おしいと大切にしてきた、世界中で生きているヴィータの一人にすぎないのだ。だからバルバトスは、彼のことを守らなければならないと思っていた。
 カタ、と窓枠が微かに揺れた。外は風が吹いているのだろう。木々の枝が少しなびいていた。風の音は聞こえない。代わりに、小さな足音がバルバトスの耳に届いた。
「ソロモン?」
 バルバトスは、その足音の主の名を呼んだ。木の扉がキィと鳴って、細く開いた隙間からその人物が顔を覗かせる。彼はバルバトスの呼びかけに「ごめん」と控えめに答えた。
「起こした、のかな」
「それは違うよソロモン」
 目が覚めただけなんだ。バルバトスは彼にそう言った。本当にその通りなのだ。
 彼はホッと胸を撫で下ろす仕草を見せ、そのままゆっくりとした動作で部屋の中へと入ってきた。
「キミも眠れないのかい」扉の前から動かないソロモンに話しかけつつ、彼の元へと歩み寄る。「まあそんなところ、かな」答えた彼もまた、バルバトスの方へと歩みを進めた。
 向かい合った二つの椅子へ、二人はそれぞれ腰掛けた。間に挟まれた小さなテーブルの上には、バルバトスのオカリナやヘアバンドがきちんと整頓して置かれている。
 ソロモンはバルバトスを見ながらも、ちらちらとそちらに気を取られていた。普段まじまじと見ることがない、それがとても珍しく感じるようだ。移動させるのも不自然かと思い、バルバトスはそれには特に触れなかった。
「ところでソロモン、こんな夜更けにどうかしたのかい」
 切り出した会話に、ソロモンの意識がバルバトスに集まる。ヘアバンドで留められていない金色の髪が、バルバトスの頬をいつも以上にくすぐった。無意識に、食指で髪を掬って右耳にかける。
「何かあったわけじゃないんだ。ただ……ちょっと眠れなくて……」
「緊張が解けて、逆に眠れなくなったのかな? 今日くらいは気にせず、と言いたいところだけど、そうもいかないみたいだね。うん、温かいミルクでも用意してこようか」
「俺も行く!」
 バルバトスが席を立つと、ソロモンも慌てた様子で立ち上がった。バルバトスは、そんなソロモンの姿を見てくすりと微笑み、唇の前で指を一本、ぴんと立てた。まるで子どもみたいな笑みを浮かべるバルバトスには、普段の大人びた雰囲気はない。これじゃどっちが子どもか分からないな、と、バルバトスは内心でも笑っていた。
 まだ全てが終わったわけではない。けれど今日くらいは、彼にのしかかる王としての重責から解放してあげたい。バルバトスは、そう思っていた。
「特別おいしいミルクを作ってあげるよ。だから一緒に、こっそりキッチンへ行こうか」
 これが、子どもに戻れない彼を戻すたったひとつの方法なのだ。

 

 

 

(20190923)