わがままが喉に引っかかる

 

 

 静まり返った廊下に出ると、自然と足音を気にして慎重に歩いてしまう。静けさに溶け込めるように、清涼な夜の空気に水を差さないように、つま先から踵にかけて少しずつ木の床を踏みしめた。そんなソロモンの目の前を歩くバルバトスは、眠る世界を起こさないよう必死になっているソロモンとは違い堂々と床板を軋ませている。それでもその音は、気に触ることのない軽い音だった。
 バルバトスが持つランプが揺れる度に、二つの影もゆらりと踊った。昨晩の宴の余韻を引きずるようなそれを見ても、全く、ちっとも楽しくなれない。今のソロモンはそんな気分だった。
「わ、」
「こらこら、ちゃんと前を見て歩かないと」
「ご、ごめん」
 立ち止まったバルバトスに、立ち止まり損ねたソロモンがぶつかる。影が一瞬重なって、すぐに離れた。バルバトスの背にぶつけた鼻の頭が少し痛い。けれど、それよりも強くソロモンに衝撃を与えたものがある。ソロモンはバルバトスを見つめたまま、その場に立ち尽くしてしまった。
 昔この村が一度滅ぶ前、ソロモンが近所の子どもを叱った時とそっくりな注意の仕方に、ソロモンは思わず涙が出そうになった。すっかり遠くに置いてきてしまった、埃を被った灰色の記憶が突如として虹になる。七色の光を放ちながら蘇った記憶は、ソロモンの記憶の中で確かに息づいていた。
 ひとつ。水が頬を伝う。その感覚をソロモンが知覚するのと、バルバトスが美しい瞳を少し大きく開いて驚いた表情を見せたのは、ほぼ同時の出来事だった。
「ソロモン」
 温かい感触が、ソロモンの頬を口もとから目じりへと撫で上げた。バルバトスの指だ。すぐに理解出来たのはそれだけだった。冷えた水滴がゆっくりとその指に救われ、温かさを取り戻す。温度のやりとりにこんなにも焦がれていたのかと、離れていく赤みを帯びた爪の先を目で追った。そうして最後に、バルバトスの瞳に己の姿が映っているのを見つけた。無意識に飲み込んだ唾液の音は、床板の軋みより大きく感じた。それでも、バルバトスは微笑むだけだ。
「ミルクを温めて、部屋に戻ろうか。はちみつをいつもより多めに入れてあげよう。今日は特別だからね」
 踵を返して、バルバトスが部屋に入っていく。ここがもうキッチンだったのか。ソロモンは、離れるバルバトスが靡かせた服の裾に、手を伸ばしかけては引っ込めて、結局のところまた慌ててバルバトスの後を追った。頬に残った温もりが消えてしまうのは、少し寂しいと思っている。
 口には、出せない。

 

 

 

(20190925)