スマートフォンのアラームは今日もお節介だった。何度も何度も停止をタップしているうちに、気づけば二十分寝過ごしている。覚醒して、意思を持った指でスヌーズを完全に停止させるまでがいつもの光景だ。寝癖の程度は日によってまばらで、今日はどちらかといえば落ち着いている方だった。掛け布団をほどよい適当さで壁際に追いやり、あとで畳もうとそのままベッドから抜け出る。折りたたみの安いベッドはよく軋んだ。もう数ヶ月は広げたままにされているベッドだ。その上には、昨晩読みながら寝てしまった参考書の他に、様々なものが置かれていた。例えば、USB端子の先がささっていない無意味なケーブルや、飲みかけの水が入ったペットボトルに消臭のスプレーなどである。それらを一旦全て無視して、ベッドの住人だった彼は洗面台に向かった。この部屋に住んでからそろそろ一年になるのだろうか。冷水でスッキリと冴えわたった思考で計算し、彼は昨年の春のことを思い出していた。
祖父母に育てられていたソロモンは、ふたりが残した遺産にかなり助けられていた。祖父母と言っても、ほぼ祖母のものだ。祖父が病床で書き残した珍しく真面目な手紙には、金を使い込んでしまったから残っていないという謝罪の言葉が書かれていた。しかしそれでも、ここまで自分を育ててくれたのだから、好きなようにお金を使ったからといってソロモンが祖父を責めることはなかった。先に亡くなってしまった祖母が遺したお金にも少し手をつけてしまったと軽く書かれていたときには少し腹が立ったが、とにかくソロモンは、良くも悪くも穏やかな少年だった。
祖父には似ず、両親の記憶があまりないため強いて言うなら祖母に似た真面目なソロモンは、なるべくその遺されたお金には手をつけず、自身のアルバイトで稼いだお金を生活費に当てていた。遺産を使ったのは引越しと学費くらいだろうか。それまで住んでいた、一人暮らしには広すぎる家を貸家にして(これは祖父が知り合いに予め話を付けていたらしい。ソロモンにはこれもさっぱり分からなかった。)新しくマンションの一室を借りた。学生向けというわけではないが、目指している大学と、通っている高校の中間にある建物だ。思い出の家具の中でも使えるものだけを新居に運んで、まあそれだけで、祖父に使い込まれた祖母の遺産はほぼ消えた。ソロモンの金銭感覚が、よく外に連れ出してくれていた祖父譲りだったのが原因だった。だが、祖母の近くで生活していたソロモンが金銭感覚を再構築するまで、そう時間がかからなかったのも事実である。彼は、感覚を掴むのが得意な少年だった。
しかし、毎月の生活の余裕はそう簡単には戻らないものだ。バイトを詰められるだけ詰めて、友人の誘いの九割を断ってこの有様である。ソロモンの暮らす部屋には最低限の物しか置かれておらず、とにかく生活感がなかった。勉強に支障が出ていないだけマシなのかもしれないが、たまに遊びにくる友人にはいつも心配されている。あれやこれやと、思い思いの私物を置いていくのだ。生活感のない部屋だが、ある一角だけは様々な物が集められていて浮いていた。とは言っても、昨日「これでも読めよ」と雑誌を置いていこうとした友人にはさすがに突き返した。俗にいうエロ本を、部屋に置かせる趣味はない。そう言うと、友人は「まあそう言うなって」だとか何とか口にしながら雑誌の適当なページを開いてソロモンに見せつけた。慌てて目をそらすも、ソロモンだってそれなりに成長した思春期の男子だ。そういうものに興味がないわけではない。隠すように突き出した手の、指の隙間から薄目で雑誌を見てしまったのが運の尽きだった。金髪の外人の女性が長い髪を振り乱しているカットは、ソロモンに強烈な印象を残している。具体的に言うならば、たまにふと思い出しては顔を赤くする程度に、と言ったところか。
ぶんぶんと被りを振って、顔に昇った熱を振り払う。ひとまず、学校に行かなければ。そう結論付けて、いつもの鞄を掴んだ。中身の少ないそれは、大げさに持ち上げられたせいか空中で好き勝手に暴れ回った。そんな暴れ馬を脇に挟んで、玄関に置いてある鍵を持って外に出る。七階からの景色は今日も変わらない。太陽が若干寝坊し始める季節にはなってきたようで、空はまだ少しだけ白かった。少し冷たくなったような気がする空気を吸い込むと、ぐぅと腹が鳴った。これじゃ空腹は満たせないなと、ソロモンは朝食の食べ忘れに気づいた。もったいないが、コンビニで買って食べよう。そう思い、財布を取り出そうと鞄を漁ったときだった。
「もしかして、お隣の方ですか?」
「あっ、はい! ……えっ?」
見慣れない人がソロモンの目の前に立っていた。肩を超えるくらい長い金の髪が、不思議なくらい良く似合っている。綺麗な人だ、と安直な言葉で表現することしか出来ない。声が低めだったおかげで、なんとか彼を男だと判断する。それほど浮世離れしている人だった。
ここで明記しておくべきなのは、ソロモンの部屋が通路の奥の角部屋の、ひとつ隣であることだ。そして、ソロモンの記憶が正しければその角部屋は昨日まで空室だったはずである。いま彼の目の前にいる金髪の男は、恐らく突き当たりの角部屋を目指している。エレベーター側の部屋の扉を越えて、ソロモンに近い位置にいるのは、つまりそういうことだろう。そもそも、エレベーター側のお隣さんは一週間前に引っ越したばかりだ。誰かが越してくるには少しばかり早すぎる。そういう意味で、ソロモンの思考は少し混乱をきたしていた。
「もしかして、」
男が言った言葉と同じことを言おうとしたときに、ソロモンは彼と目が合った。ぼとりと手から財布が落ちる。持ち主が拾うよりも先に、金髪の男がそれに手を伸ばした。邪魔になったのだろうか。彼は片耳に髪をかけ、ソロモンの財布を難なく拾い上げた。彼を目で無意識に追い続けていたソロモンは、その行動にギョッとした。
「驚かせてすまなかったね。俺はバルバトス、今日からそこに住むことになっているんだけれど……」
バルバトスと名乗った彼は、少し考える素振りを見せたあと、一つ軽く頷いて「後日挨拶に伺わせてください」と言いソロモンに微笑んだ。ああ、なぜだ。どうしてここで、あの雑誌で見た外人女性のアラレもない姿を思い出すのだ。
カチコチに固まった体をなんとか動かして、ソロモンは財布を受け取り制服のポケットに仕舞った。それを見届けて、彼はソロモンが予想した通り、奥の角部屋の扉を開けた。
人生歴十七年。まだ気付かぬこれが、ソロモンの初恋になる。バクバクと煩い心臓だけが、ひと足早くそれを理解していた。
(20191105)
(20200108:加筆修正・タイトル追加)