Prologue
肺が痛烈な痛みを訴えている。青年がそれに気付いたのは、体の前面を強く地面に打ち付けた後のことだった。
足は鉄の棒にでもすり替わったかのように、ぴくりとも動かなかった。背後に張り付いていた草を踏みつける音はいつのまにか消えていて、青年を追い立てていた獣の唸り声はおろか、木の葉が風で触れあうざわめきすら聞こえない。
だがしかし、目下に迫っていた死はひとまず免れたのだ。それだけで、青年は生きている心地がしていた。全く言うことを聞きそうにない体のことまで考える余裕はない。獣に腹を割かれなかっただけマシ。そういうことにでもしておかないと、数分先にある自身の命の行方について意識を持っていかれてしまいそうだ。
果てまで白い視界と、かろうじて指先に感じている冷たい温度で、雪が降り積もっている場所にまで来ていたのだと知る。ずいぶん遠くまで来ていたみたいだった。
雪そのものは珍しくはない。ただ、青年が暮らしていた村では、雪が降ることはあれど積もることはなかった。結晶が形を保っていられるほどの気温ではなかったからだ。そして、見えているものが間違いなく雪であるならば、早くこの場から動かなければいけなかった。
雪が降っている。そんな中で眠ってしまえば、待っているのはまたしても死だ。
また獣がやってきたらどうしようか。その前に、雪に埋もれてしまうだろうか。寒さはとうに感じなくなっていて、いよいよ危険だと頭では理解している。けれど、青年には何も出来なかった。
四肢を雪の上に投げ出して、髪にひっかかりながらも重みで滑り落ちていく白いものを茫然と眺めている。どことも知れない場所で人生を終えることになるとは思ってもいなかったが、帰る場所もない青年にとっては、もう些末なことにすぎなかった。
終わりに抗うように、ゆっくりと目を閉じていく。変化のない景色を最後の一瞬まで記憶に焼き付けておこうだとか、そんな気持ちは一切なかった。一面の白を見ていても、火の手が上がる故郷の村の光景がそこに映し出されるだけで決して気分も良くなかった。強いて言うならば、最後の最後までつきまとう空腹感が、その嫌悪感によっていくらか紛れているだけだ。結局のところ、痛みを別の痛みでごまかしていることと何ら変わりがないのである。
背にのしかかる雪の重さを知る手段はなかった。だが、ある変化が訪れた。
視界に影が落ちたのだ。白が灰色に変わった。たったそれだけの変化だ。
「 」
それだけの変化が、奇跡のように思えた。そして、それに安堵してしまった。
「 」
「 」
その影が生物の作り出すものだと分かっていて、ひどく安心したのだ。これに食われるにしろそうでないにしろ、自身が孤独でないことは確かなものになったのだから。そう思うと苦しかった呼吸が楽になっていた。
「間に合った、かな」
肺いっぱいに酸素が行き渡ると、人の声が聞こえるようになった。それと同時に、鉄のように無機質だった足に激痛が走る。なのに声が出せない。
少しずつ戻ってくる感覚に苦しめられている。死んだ方が楽だと思った。
「まだ、ダメか……でもこれ以上は、俺が……」
たすけてくれ、と、必死の思いで腕を伸ばした。
骨が軋んで、肉が裂ける。肘の関節が、馬鹿にでもなったみたいに何かにつかえている。目に映ったその手は酷い有様で、そういえばここで倒れる前に獣に噛みつかれたのだったということを思い出した。
「…………すまないね」
その人はそう言って、青年の、真っ赤に染まった腕に優しく触れた。焦点の合わなくなった視界でも、自身の手に触れたのがその人の指であることは分かった。
よかった。自分と同じ「人」だった。人の言葉を話す怪物でも、死んでから自分を食べる獣でもない。その事実に救われた。しかし、その手を取ることはしなかった。
触れた指の優しさはまるで、死を悼む行為の代わりのようで。つまり、自分はもう助からないのだと、言外に宣言されてしまったのだ。離す道しか残されていない手を、好んで取る人はいないだろう。なら、その手を掴んでも迷惑になるだけだ。
謝られると、諦めもつく。痛覚が機能していないのか、腕は不思議と痛まなかった。
助けようとしてくれた、この人の顔を見ることが出来なかったのだけが心残りだ。でもどうか、自分のことは忘れてくれたら、と思う。偶然近くを通ったせいで死にかけている人を見つけてしまうなんて、嫌でも記憶に残ってしまうだろうから。それは、青年の本意ではない。
「少しだけ、いただくよ」
その言葉の意味はあまり理解出来なかった。思考自体が、もう擦り切れて使い物にならないから、仕方がない。お金になるようなものは何一つ持っていないのだが、それを伝えられないのが歯がゆかった。
その優しい人の手が離れて、後を追うように温もりが消えていく。少し寂しくはあったが、やはり独りではない心強さが勝った。
ひゅ、ひゅ、と空気が漏れる。早く、楽になりたい。その一心で目を閉じて、世界に、人生に、その人に、さよならを告げた。
(20200422)