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 武器になるってどんな感じ?
少し蒸された帰宅直後、自宅にて。汗ばんだ肌から制服を剥がす樹にさらりとそう言われて、クロムは少し考えた。剣の姿をとり、樹の手で敵を貫いてはいるものの、それが至極当然の現象であるため考えたこともなかったのだ。だから素直に「考えたことがなかった」と伝えた。
樹は「それもそっか。俺だって、クロムがどうして武器になるのかなんて考えたこともないし」と慌てて苦笑いをして、ヘンなこと聞いてごめん、と付け足した。どうやら自分は答えを間違えたらしい。クロムがそれに気づいたのは、樹の声を聞いたときだった。
表情よりも、声に気持ちが乗っているのだ。クロムがそう感じるのは、樹をマスターとして存在する、ミラージュという生き物だからかもしれない。樹の目を通じて映る景色や、樹の耳を介して届く音は、クロムにとっては貴重な情報源であり他のどんな言葉にも代えがたい特別な感覚だ。だからもちろん、武器として樹と共に戦う時も言葉では表しにくい不思議な感覚の中で漂っていることには違いない。それが、水に溶けるように馴染みよく、そして心地よいものであることは言うまでもないのだが。
個として意志を持ちながらも、樹とクロムは文字通り「一心同体」だった。
樹の手の中に納まる感覚は、クロム自身が馴染みの武器を握っている時の感覚によく似ていた。武器を扱っていたという記憶自体は、はっきりとしない。しかしその感覚は、それ以外にピタリとはまるピースがないパズルのようであり、それ以外では上手く噛み合わない歯車のようでもあった。まるで同じ魂を持っているような錯覚に陥りそうになっては、そんなことがあるわけないとその考えを振り払った。
記憶こそ失われているが、蒼井樹という人間の魂が自分自身と全く同じであるという仮定が有り得ないことくらいは分かる。ミラージュの事件さえなければ限りなく平和に近い世界で生きている樹と、戦闘における知識が豊富な自分自身が、似て非なる人生を送ってきたことは理解しているはずだった。それでも、樹の目を通して樹が生きている世界を見ていると、その境界線は瞬く間にぼやけて曖昧になる。最初から、必然的に、このマスターに出会うためにこの世界に産み落とされたのではないかと思ってしまうことがあったくらいだ。そんなこと、世界が滅ぶのと同じくらい「間違っている」ことに変わりはないのだが。
クロムが樹と出会ったのは、ただの偶然の重なりでしかない。パフォーマがなければ消えてしまう希薄な傀儡として、暗い海の底を亡霊のように這いずり回っていた時に出会った一等星の輝きを、クロムは率直に「おいしそう」だと思った。あれさえ手に入れれば消えずに済むという確信と、頭に響く、主の姿すら知らない声に促されるまま、クロムはその光を追いかけた。そういう、お互いにとって不幸な偶然が関わりあった結果、クロムはこうして鎖から解放されて生きている。この幸運的な出会い、ひいては樹には、いくら感謝したって足りないくらいだった。
樹の生み出すパフォーマが、この世界で最も美しいとクロムは思う。その輝きが失われることだけは、あってはならない未来だ。だから、それを守ることが出来るなら姿かたちはなんだっていい。その多様な選択肢の中での最適解が、敵の支配下にあるイドラスフィアにおいて、ミラージュである自身が最も影響を受けにくい「武器」という形だっただけに過ぎない。
しかし、冒頭の樹の返事はクロムの予想していなかったものだった。なら何が正しい返事だったのかと言われても、それは全く想像もつかないのだが、とにかくクロムの返答が樹の期待から外れたものだったことは確かだ。クロムの答えを受けた樹の声は、なんでもないと笑ってはいたものの、明らかに肩を落としていた。
一心同体というのは、こういうときに誤魔化しがきかない。樹だってそれを分かっているだろうに、それでも隠す素振りを見せてしまうのは染み付いた癖のようなものだろう。魂で会話をするという不可思議なコミュニケーションの形は、樹の生活の中に今までなかったものだ。それはクロムにとっても同様のことではあるが、なにぶん人間ではない故に、意識の交差を制限するのはクロムの方が上手かった。
「イツキ、何かあったか?」
どこまで考えてもやはり答えが出なかったので、クロムは樹から直接理由を聞き出すことにした。何か、とはいかにも漠然とし過ぎているが、これ以外の方法を思いつかなかったのである。剣を交えない関わり方は、クロムがまだ苦手としている部分でもあった。無論、そういう感覚がしているだけだ。実際は剣など触ったことすらないのかもしれないし、そもそも人間だったのかさえ怪しい。けれどそれを疑い始めるとキリがないので、クロムは体に染み付いた記憶を信じることにしている。そのあやふやな記憶に従うならば、戦いの中で生きたことのない樹と認識のズレが起きるのも仕方のないことだと思えた。そのズレを修正するために、クロムは先日から「日本」と「高校」について学び始めたのだ。疑問が出来れば「イツキ」と話しかけていたのが幸いしたのか、呼びかけられた樹は反射的に顔を上げた。
首に引っ掛けられたトレーニングウェアが軽く揺れる。袖に腕を通しながら、樹は言った。
「なにもないよ?」
「嘘はダメだ。隠し事も」
「何も隠してないんだけどなあ」
「声で分かるぞ」
「顔じゃなくて?」
「声だ。イツキの声は遠くまで届く良い声だが、今のは違った。何が悲しいのか、わからないから教えてくれないか」
「声だけでそこまでバレると恥ずかしいな……」
「毎日近くで聞いているんだ。わからないはずがない」
「まあ悲しいっていうのは間違ってるけどね」
「な、なんだと!?」
驚くクロムの声に笑いながら、樹はズボンを履き替えていく。クロムの驚き方が随分と面白かったようで、目じりに薄く涙が浮かんでいた。とうとうクロムの理解もおよばなくなり、クロムは「イツキ……?」とおそるおそる呼びかけた。戦闘時の威勢は見るかげもなく、それがまた樹に波及する。悲しそうな笑みではなかったので、納得はいかないが樹が落ち着くまでクロムはそれ以上呼びかけなかった。
「クロムは人間なのに、剣になってるときのこと聞かれても困るよなって、言った後に気づいただけだよ。記憶がないのに分かるわけないよな、ごめん」
そのあとすぐ、まだ控えめに笑っていたが樹は真剣な声色で話した。
「自分で言ったことを反省してただけなんだけど、悲しんでるって思われてるとは思わなかったよ」
「本当に、悲しくはなかったのか?」
「嘘ついたって意味ないだろ。俺たち一心同体なのに」
「……そういうのを、開き直りと言うと高校で言っていたな」
「ちょっと待って! そういうのいいから!」
「勉強は大切なことだ。それくらい俺にも分かる」
「母親みたいなこと言わないでよ」
「せめて父親で頼む」
「いやだよ。クロムは俺の大切な相棒なのに」
相棒、の言葉にクロムは少し引っかかった。本当に一瞬のことだ。なにも間違っていないじゃないかと判断されたその言葉は、何事も無かったかのようにスルスルと理解の縁へと滑り落ちていく。しかし、やはり何かが違ったようで「そうだな」と返したきりクロムは言葉を続けられなかった。
「イツキ」
「クロム、今日はよく喋るね」
「俺が武器になっているときの話だが」
「えっ、その話終わってなかったのか!?」
「マスターには真摯に応えるべきだと思ってな。考え直した」
「そういう時だけマスターって呼ぶの、ズルいよ」
「聞きたくなかったのか?」
「……聞く。クロムのこと、もっと知りたいから」
「そ、そうか」
俯き、目を逸らして話す樹がいじらしく見えて、クロムはこれが父性かもしれないと言葉に詰まった。同時に、人間ではない自身のことを「もっと知りたい」と言ってくれたその言葉が嬉しくてしかたがなかった。元は人間なのだという意識は持ちつつもそうではない、亡霊のような存在の己を受け入れてくれているのだと改めて認識する。
鈍い切り出し方をしながらも、クロムは樹に、剣になっているときの感覚を話し始めた。
体は剣になっているが、意識はまた別のところにあること。樹の右手で振るわれることが、初めから決められていたように馴染んでいること。直接受け取る樹のパフォーマが、なによりも素晴らしく輝いていること。ほかにも――。
「ま、待ってくれクロム……!」
樹の力強い制止が入ったのは、三分の一ほど伝えたときだった。
「む、まだ終わってないんだが」
「もういいから、ほんとに、ありがとう、もういい、です」
両手で顔を覆い隠してしまった樹に、クロムはいつも通り話しかける。耳に熱が集まっている、己のマスターの珍しい姿が興味深かった。めったに見られない樹の様子が、なにによって引き起こされたのか気になってしまう。
「なぜだ?」
「恥ずかしいから!」
「恥ずかしい?」
「恥ずかしいよ!」
「なぜ恥ずかしいと思うんだ、イツキ」
「う……それは……」
手のひらの下で樹はなにやらもごもごと話していたが、それは言葉としての形を成しておらず、クロムにも聞き取ることができなかった。というよりは、さすがに聞き取るのを拒否されているようだった。よほど聞かれたくないのだろう。だが、クロムがじっと無言を貫いていると、樹はその空気に耐えられなくなってしまったのか、ひとつ大きく深呼吸をしてぼそりと話し始めた。
「自分が思ってたこととほとんど同じだったら……誰だって恥ずかしいって…………俺のミラージュなんだから分かるだろ、だから言わせないで……」
しぼんでいく樹の声は、樹のミラージュであるクロムでなければ聞くことができないくらい小さいものだった。だがそれよりも、樹が自分と同じことを感じていたのだという告白がグルグルと頭を巡っている。一方的な感覚ではなかったのだという事実は、クロムにとっては何よりも嬉しいものだった。無い心臓が高鳴る錯覚を抱くくらいに、だ。その感情を樹に隠さずにいると、まだ復活しない樹から「少しは隠してほしい」とオーダーが入った。そういうところがまたいじらしく感じられるのだが、果たしてこれは父性なのだろうか。クロムの中に新しい疑問が浮かんだが、とりあえず、樹のお願いは聞かなかった。隠すにはあまりにも大きすぎる感情で、聞けなかったというのが正しい。
「……レッスン行くから」
お願いを聞いてもらえなかった樹は、思い出したように予定を話した。出発するにはまだ三十分以上早いが、いたたまれなくなったのだということは容易に読み取れる。「俺も行こう」と普段と同じようにクロムは提案した。レッスン場は、ミラージュであるクロムが樹のパフォーマを直接受け取るのに最良の場所だ。が、ここで初めて、クロムは樹にフラれることとなる。
「クロムは終わるまでブルームパレスにいてくれ!」
「な……ッ!」
「今日は絶対ダメだから!」
「そんな、パフォーマは、」
「夜まで待って!」
「分かった、約束は守ろう……!」
そうして、ドアをくぐった樹に「はやく」と急かされて、クロムはブルームパレスに意識を引っ込めたのだった。

 

(20200620)
(20200821:タイトル追加)