※if世界線、家族や過去の捏造あり
※注意が多すぎて書けない
摘まれた可能性の話をしよう。とあるミラージュと、そのマスターの話だ。かのマスターがいなければ、世界は早々に滅びを迎えていただろう。希望は、間違いなくその少年にあった。そして彼を希望へと変える存在もまた、別の場所で確かに希望として輝いていた者だった。
――ここでは、その輝きは既に失われている。依代となる人間を探して彷徨う姿は、もはや亡霊だ。その亡霊、ミラージュに名前は無い。記憶も思考も意思も奪われ、自己が瓦解した彼らは、己の名前が喪失していることにも気づけない。
ミラージュが依代を求めるのは、空虚な己の中身を補うためではないか。あるいは、拡散してしまう己の存在を閉じ込めるための「個」という入れ物を求めているのかもしれない。彼らがどのような要素をもって依代となる人間を選んでいるのかは不明であるが、なにかしらの素因があって惹かれていると見て間違いないだろう。
依代を見つけようが見つけまいが、それは些細なことだ。だが、いないよりはいる方がパフォーマの回収率が良い。回収率が良ければ、それだけ目的も早く達成される。それを願う者に、ミラージュたちは利用されていた。
ここで観測されたとあるミラージュ。個体名をクロムという。彼は、これから希望となる少年の強い輝きによって、永遠の闇を払われる――はずだった。
最悪なことに、蒼井樹はマスターになれなかった。ここは、そんな有り得たかもしれない可能性の墓場だ。しかし、ここで目にするものは全てその可能性に従って物語を紡ぐ。
蒼井樹は、クロムの闇を払えない。世界はそこから、道を違えている。クロムは蒼井樹を依代として、ほとんど紛い物の自己を作り上げた。無から解放され、クロムの名を取り戻した亡霊は個としての意志を持ったのだ。
けれども、弱き者に刃を向けるのはクロムの名を語る偽物だ。それを知る者がいれば、あるいはまだ、事態は最悪には至らなかったのだろう。樹に関しても同じことだ。墓場から拾い上げたこの可能性は、無数に存在するそれらの中で最も最悪なものを映している。正史から離れて最果てに位置する、この世界線にも芽吹きの道があったのだ。
そうして、依代を手に入れた亡霊は初めて向こうの世界へ降り立った。
足元のさらにその下。地上数十メートルの宙にまで届いていた人間たちの声ががぷつりと途切れる。絞りカス程度のパフォーマしか持たない人間が散見されていたが、かき集めれば問題はないだろう。
ミラージュの依代となれるほどの、溢れそうな量のパフォーマを持つ者はそう多くない。そしてミラージュの中にも、依代の必要性を知らされていないものがいる。そういったミラージュは、素養のある人間のパフォーマも見境なく吸い上げてしまうのだ。それは、些か効率が悪い。思考を得た今のクロムはそう思っていた。
「どうだイツキ。夢のような、素晴らしい世界だ」
宙に受けない樹を片腕に抱えて、亡霊の男は言った。
男の胸元にだらりと体重を預けている樹は、赤いローブの下で虚ろな瞳を数度瞬かせただけだった。首輪の様に浮き上がる、依代であることを示す模様はまだ明滅していた。抵抗しているのだ。クロムには分かった。そうならないようにギリギリまでパフォーマを剥ぎ取ったつもりだったのだが、この依代の少年が内に秘めていたそれは、クロムの予想を遥かに上回っていたようだ。強制的に繋げた心が、樹の抵抗をひしひしと感じている。
仕方がない、とあちら側に撤退した。この依代に逃げられるわけにはいかない。クロムが思考を保つためには、この少年が欠かせないのだ。己のことが何一つ分からない、暗闇の世界に戻ることだけは避けたかった。
「イツキ……イツキ…………、良い名だ」
腕に収まる樹に呼びかけながら、亡霊の男は異世界を進んだ。
クロムが樹の名を知ったのは、彼を依代として腕に収めた、その直後のことだった。槍使いと杖使いの、二人のミラージュマスターの乱入があったときだ。赤い槍使いが依代のことを「イツキ」と呼んでいたのを聞いたのだった。
その後すぐ、同じ場所にいたらしい女のミラージュが人間に魂を変化させられていく様子を察知して、クロムはその場から逃げた。
あの光が恐ろしくてたまらなかった。それに比べて樹のパフォーマは、クロムに安らぎを与えていた。やはり、自身の依代となれるのは樹しかいないと、クロムは直感的に理解した。まさしく、これこそが運命だ。
クロムに抱えられた樹に、徐々に鎖が巻きついていく。首や頬の模様の明滅は弱まり、ゆるやかに安定へと向かっていた。強引に繋がれていた樹とクロムの心が、ひとつになろうとしている。ひとつになれば、樹の全てはクロムのものになるだろう。樹の記憶も、感情も、体でさえも、ミラージュのものになるのだ。まだ名前しか知らない運命の依代の、その全てを食せる時を今か今かと心待ちにしている。
辛いことは逃げてしまえばいい。悲しいことは忘れてしまえばいい。ここでは独りではない。ここでは己が共にいる。
樹からこぼれるように流れてくる、彼の記憶に言葉を返す。一見問題なく健やかに成長したかのように見える、良い子を演じる少年の声が少しずつクロムの声に従っていく。
樹の表情が僅かに歪んだのを見て、クロムは樹に、目を閉じるよう促した。
樹は目を閉じた。虚空を貫いていた視線は、そこで初めて胸の内側に向けられた。内に眠る記憶を呼び起こされながら、時に感情を掘り起こされながら、今を忘れ、過去を見つめた。まるで夢を見ているようだ、と、かろうじて保たれている樹の意識が口を開く。
依代は夢を見ない。現実の認識など論外だ。依代は、自身の中にいるミラージュのために命を燃やし、輝かせ、全てを捧げる存在なのだ。樹もまた例外ではない。
クロムの声が聞こえていた。
樹はクロムの名前を知らなかった。男か女かの認識も必要とはしていなかった。ただ、声が聞こえている。ゆりかごに乗せられているような、心地よい甘言が永遠に与えられている。
他の何事も考えたくない。この声だけ聞いていたい。体もいらない。心もいらない。この声に全てを委ねたい。それでいいと声は言う。
――学校にしか居場所がなかった。祖父母はとても優しかったが、それでも両親が恋しかった。哀れみを向けられることが増えたから、他人からの感情には気づかないふりをした。そんなことを続けているうちに、それが当たり前になってしまった。いつしか寂しさなんて忘れていて、樹は「平凡な」少年になったのだ。
青が似合うわね。唯一覚えている母親の声が、今も樹の胸に刺さっている。
嬉しかった、のだと思う。気づけば、何年経っても青色の服ばかり着ていた。友人たちも、樹には青が似合っていると言ってくれるのだから、母のそれも、きっと悪い意味ではなかったはずだ。今となっては確かめる術もなく。樹はその感情の真偽に怯えながら、それを胸に抱え続けるしかなかった。
自己を表現することを止めてしまったのは何がきっかけだっただろうか。そんなことを考え始めると、樹にずっと話しかけていた声が一層強く、しかし優しくそれを制した。
今なら、この声と会話ができそうな気がしていた。だから樹は、お前は誰だ、と声に問いかけた。名前はと言うのなら、と前置きされてから「クロムだ」と声は答えた。はっきりとした返答が得られたのは、その時が二度目だった。
そこから、樹はクロムと相互的なやりとりが出来るようになった。それは樹の心が少しずつクロムを受け入れていることの表れでもあった。樹の記憶や感情は筒抜けなのだと知らされても、今の樹には、説明の手間が省けて楽だという程度の認識でしかなかった。クロムは、目的だとかこれからどうなるのだとか、肝心なことは一切樹に教えてくれなかったが、なんだかそれも、もうどうだってよかった。クロムさえ傍にいてくれれば、樹はどこか満たされるような気持ちだったのだ。
説明しなくても、すべてを分かってくれるのはとても楽だった。傷跡を切り開かなくていい。痛みを忘れたままでいい。それは樹にとって優しい世界だった。
「なんでもいいから、違う色になってみたかったんだ」
青にしかなれなかった後悔が、ついに口をついで出た。今まで誰にも言えなくて、でも聞いてほしくて、そして認めてほしかったことだ。それを口にした瞬間、樹は体に力が行き渡るのを感じた。全身に描かれた模様からは規則的な点滅が消え、ほのかに赤く光が灯った。重くのしかかっていた鎖は体から数センチのところで浮いていた。重い鎖が今まで体を縛っていたなんて嘘みたいだ。
目が情報を取り込むようになって、樹は初めて、自身が纏う赤いローブを目にした。
「……クロム」
生まれ変わったような心地だった。樹が、そのきっかけになった「相棒」の名を呼ぶと、彼は即座に応えてくれる。樹がどんな言葉を望んでいるのか、クロムには手に取るように分かった。二人の心は、とうとう一つになったのだ。
「ああ、イツキには赤が似合うさ」
幻にすべてを委ねた少年は、嬉しそうに笑っていた。
(20200625)
(20200821:タイトル追加)