太陽の昇らない街グロッタ。僕たちは大樹の枝を求めてこの街にやってきた。巡り巡ってこの街で行われる武闘会の優勝賞品になっていた件の枝は、やはりなんとしてでも手に入れなければと、受付に駆け込んだのはもう二日も前のことだ。戦わずに手にできるならそうしたかったし、魔物ではなくて人間相手に武器を振るうのは、わかっていても少し抵抗はある。普段の無口さに拍車がかかっていたのか、同室だったカミュは昨日、僕のなんとも情けない心の内をいとも簡単に暴いてしまったのである。
「勇者サマはこういうの苦手そうだよな」
ベッドに背を預けて、明日に備えて短剣の手入れを行っていた手が止まり、優しい視線が、表情が僕に寄こされる。なにが? と聞き返すと「まぁ虫も殺さないような顔して、魔物相手には容赦ない勇者サマだけどな」と意地悪な顔で笑われた。
「カミュのいじわる」
カミュの武器の手入れの様子を眺めていた僕は、隣に下ろしていた足をベッドにあげて、大の字で寝転んだ。今日はこのベッド、僕が占領してやるんだ!
「そうむくれんなって。ただイレブンが優しいだけだよ。それはオマエのいいとこだ」
いつのまに手入れを終えたのか、僕に降り注ぐ照明を遮って、手袋を外した左手がぽすっと僕の頭に置かれた。そのままゆっくりと耳元まで沿わせる。そのひと撫でが、ここにはない太陽のように暖かく感じた。
「勇者サマには優しくあってほしいと、俺は思うぜ?」
気楽にやれ、やれるところまででいい。と言うのだ。明日の予選の緊張も、僕の情けなさも、勇者としての未熟な僕自身も、すべて包み込んでくれる空色の彼が。
「うん……ありがと、カミュ」
カミュは頬にキスをくれた。おやすみの合図だ。僕が不安な夜に、いつもしてくれるおまじないのキス。僕らの関係が恋人になっても変わらずにしてくれる、僕の安心できるおまじない。
緊張の糸が緩んだ僕はそのまま眠りについたのだろう。朝いつもより少し早くにカミュが起こしてくれて、身支度を整えた。また戦いの舞台でと、挨拶もかわしたはずなのに。
「……カミュの、いじわる」
予選敗退してしまったカミュに代わって、明日からは僕ががんばらなくちゃいけない。一人部屋になった布団にくるまって、僕はそればかり考えていた。大会出場者は無料宿泊って言ってたから、カミュも出場するって言ってたから、まさか早々に一人部屋になるなんて思ってもみないサプライズだ。シルビア以上のサプライズだ。勇者の心臓によろしくない。
僕のパートナーになったハンフリーさんは、人間に攻撃することを何とも思ってないみたいだった。会場を沸かせる優勝経験者の笑みに、隣に立っていた僕は少しうすら寒いものを覚えたのだ。僕の頬を伝う汗が日光に反射するあの気温の中で、だ。
それにあの空間にいると、人間を相手にすることが苦手な僕がとても異質な存在なのだと突きつけられているようで。中途半端な僕はハンフリーさんの優勝の妨げになりやしないかと怯えている。そして最終的に予選敗退したカミュにこっそり八つ当たりしているのだ。
ぐるぐると同じところを周回する思考を整理しよう。決意したのは思考が四周目半ばに差し掛かったころだった。他の人たちはもう皆寝ているだろう。参加資格である、明日も身に着ける自分の仮面をベッドサイドから取って握りしめた。
受付に大まかな行き先と帰る時間を伝え、宿を出る。街は人がまばらに、みな酔っているみたいだった。彼らを避けると、明かりのあまり届かない路地の行き止まりにつく。月あかりはないけど、このレンガ造りの街は僕の思い出に安らぎを与えてくれるようだ。故郷のことは一生忘れることはないけれど、僕は僕の十六年間を作ってくれた記憶を、悲しみで塗りつぶしたくはなかった。それでもぐちゃぐちゃにしてしまいそうだった僕を引き留めてくれたのが、カミュだ。
「いつもカミュに助けられてばっかりだなぁ……」
あのときも、昨日も、僕は助けられてばかりなのだ。カミュだけじゃない、他の仲間にも。
(僕もみんなを助けたい)
それならば、今できることはひとつ。優勝だ。
握りしめていた仮面を見つめ、僕は覚悟を決めた。その矢先。
「夜遊びする悪い勇者サマはどこかなっと」
声がした。頭上だ。見上げた僕は銀色の仮面をつけた、オレンジがかった空色の髪を見た。
「カミュ、え、なんで、ここっ」
「こっそり宿から出て行ったろ? この街高低差あるから、上から探した。人気のないところに行くのは追手から隠れるときだけの方がいいぜ、怪しまれるから」
なんでいるの、とかどうしてここがわかったの、とか。混乱している僕の言葉を翻訳してくれるカミュは、僕の頭の上の道にいるにも関わらず、軽々とこちらに跳んでみせた。そのまま元盗賊の早業よろしく僕の仮面を手のひらから抜き去ると、僕にかける。
「昨日言えなかったけど……よく似合ってる」
そのまま宿から来てくれたのだろう。昨日と同じ肌の感触が、昨日と同じように僕の頭から耳元へ、そして髪を絡めながら首筋へとなぞっていく。そこで動きが止まったかと思うと、真剣のように鋭く、真綿のようにふわりとした、奥に見える温和な瞳に射抜かれ動けない。灯火が揺れるたびにきらめく彼の銀色が僕をさらに惑わせる。世界はこんなにもゆっくりと進んでいるのか。
僕の中の時計が正常に動き出したのは、彼の唇が頬に触れてからだった。
「あしたもがんばれるように、おまじないだ」
今度こそにっこりとした笑顔で、帰ろうと促された。一歩進ませながら、彼は彼の仮面を取ろうとしている。僕は、カミュに似合ってるってまだ言えてないのに!
「カミュ待って!」
「うおっ!?」
力任せに右手を掴んで振り向かせた。
「カミュも似合ってる! かっこよくて……好きだよ……」
これが結構恥ずかしいのだと徐々に自覚して尻すぼみになる。恥ずかしさを隠すために、僕もお礼のキスをした。かつん、と仮面が触れ合う。上手にできないなぁ。角度かなぁ。
「あ、えと、おまじないのお礼……ダメだった?」
ゆでだこの顔を隠したくて伏せた。伏せる前のカミュはびっくりした顔で僕を見ていた、と思う。
「イレブン」
強い日差しが照り返す、いつか見た海のようなぎらつく双眸があった。ほんとはもうちょっとゆっくり教えていきたかったんだけど、と前置きのあと、僕の下に忍び込んできた彼に、僕は口呼吸を奪われてしまった。人間なのに鼻呼吸を忘れて、酸素の供給を止められて。
(ぼく、いまなにされてるの)
後頭部にある彼の利き手の左手。逃げることを許してくれなくて。じりじりと一歩、また一歩と後退させられて。つまずいた僕は樽に座り込んだようだった。それが彼にとって好都合だったのか、僕の知らないおまじないのキスは一層激しさを増した。かつり、こつりと仮面が当たるようになったから、さっきのは僕の下手さが原因じゃなかったんだ。考えられたのはそれだけで、時折呼吸をさせてはくれるものの、あふれてくる唾液を飲み込めない。あふれた唾液の水っぽい音と、僕たちの声が響かなくなったレンガに響く、仮面の硬質な音だけで空間が成り立っていた。酔っ払いたちのどんちゃん騒ぎも、ちかちかとしたネオンの明るさも、さっきまではまだ存在感があったのに、今は僕の世界にはカミュしかいない。
(くるしいおまじない、だけど……しあわせ、かも)
舌を吸われ、歯形を確かめるように蹂躙され、やっとの思いで解放された。苦しかったのに、名残惜しさが僕たちの交じりあった唾液の糸に残って、焔の橙色を反射する。
「はっ、……っぁ……か、みゅ、」
「ゴメン」
酸素の回らないぽんこつアタマは「ゴメン」の意図もよくわからなかった。でもカミュが勝手に「イレブンがかわいかったから、つい」「今の状態だと誰にでもキスしそうだったし」などなど呟いてくれる度に、あの食べつくされるキスもカミュが僕に言ってくれる「愛してる」と同じだったんだなあと実感する。
「カミュなら、いいよ」
嬉しい。
精一杯に伝えれば、さすがのカミュもゆでだこになってきていた。僕の心のどんよりとした濁りのようなものは、さっきのカミュに全部食べられたみたいだ。軽くなった心には僕がさっき決めた覚悟が残っていた。
宿に戻るころにはお互いに、欠伸がぽつぽつと出始めていた。僕は昨日と同じようにベッドに寝転がる。カミュは僕の部屋まで付いてきてくれた。一人部屋だからだろうか。昨日と同じ距離なのにとても近く感じる。
(ああそうか、仮面がないから)
仮面の中から向こう側のその奥を見るのと、丸裸の今とではこんなにも違うのか。それとも僕は魔法にかけられてしまったのだろうか。
「またおまじないしとくか?」
にやりと笑ういじわるなカミュ。焦って返事ができない僕の頬に彼の唇がまた触れた。
――期待した?
ぽかんと口を開いている僕と、くつくつと腹を抱えて笑うカミュ。よくそんなに表情をかえられるものだ。こんなやりとりのひとつひとつが心地よいゆりかごになる。
「眠れるまで、ここにいるから」
「うん、かみゅ……ありが、と……」
期待、したかもしれない。カミュ、ほんと撫でるの好きだよね。僕が眠れないこと、わかってたのかな。お見通しなのかなあ。ずるいなぁ。
口には到底出せない僕の思いは、布団とまどろみに包まれた。重くなってきた瞼が、もう今日はおしまいだと告げる。
「――決勝リーグ、無理すんなよ」
僕のまぶたの裏には、僕の大好きな君がいつまでも映っていた。
(20170819)