深夜のディナーにハンバーガーを

 

 

 ホメロスは今、睡魔と闘っていた。上司も部下も帰った会社のデスクでひとり、ブラックコーヒーをちびちびと啜りながら、蛍光灯がぎらぎらと光るフロアでパソコンに向かっていた。時間はもう二十二時を回ろうとしている。
 こんなことになったのも、部下の小さなミスが原因である。小さなミスだ。ただ長い付き合いの先方が明日の朝までに修正して送れと無茶なことを言わなければ、ホメロスは部下にミスがあったことを伝え、明日の朝に部下自身に修正させて、午後に送り返すつもりであった。これでも部下の育成には力を入れているつもりである。
 得意先のお怒りを買ってしまったことに部下は大層怯えてしまい、ホメロスはそれをなだめることに午後の勤務の二時間ばかりを割いた。ちょうど終業時刻になったので部下を帰らせ、ホメロスはその部下の代わりに修正することにした。もちろん、二時間分の通常業務もまだ残っている。しかしまあ明日は休みだから少しくらい帰宅が遅くなっても問題ないだろうとホメロスは考えた。そして整頓された自身のデスクのパソコンを起動させて、残業をしていたほかの部下たちが「お先に失礼します」と頭をさげて帰っていくのを見送った。
 日も暮れて間もない頃、ホメロスはこの仕事が少しくらいの残業で終わらないことに気が付いた。これは会社で一泊の、朝帰りもあり得るかもしれない、いやもう確実に泊まることになるだろう。頭の後ろで一つにまとめた長髪は、出社したての午前と違い、乱れている。髪をぐしゃぐしゃにした右手で、ホメロスはスマートフォンを開いた。
 そろそろ連絡をいれておかねば、一つ屋根の下に共に暮らしている、数十年の付き合いの幼馴染が心配するのだ。部署は違うが会社は同じで、退勤時間が被れば一緒に帰宅したりするのだが、今日は違う。幼馴染は出張でそのまま直帰だったはずだ。帰りは遅くなると、ホメロスは朝事前に伝えられていた。
「さすがにアイツも帰っているだろう」
 食器だけは今日中に洗っておけと言わねば。スマホをタップし、帰っているはずの同居人に連絡を入れる。送信ボタンを押した。そしてまたキーボードを叩く作業を再開する。
 軽く一時間は経っただろうかというところで冒頭に戻る。ホメロスは今まさに睡魔と闘っていた。目薬もエナジードリンクも準備せずに挑んだのがまずかったかと舌打ちをする。あと少しで会社から出られなくなってしまうので、コンビニに買いに行くという選択肢は強制的に削除されてしまった。さすがに腹の虫も鳴いている。
 時同じくして、静かな社内に響く騒がしい足音が耳に届いた。もうすぐセキュリティロックのかかる時間だというのに、よほど大切な忘れ物をしたのだろう。ロックがかかる前に会社から出なければ私と一緒に朝まで一泊だぞ、とホメロスは誰とも知らない相手を心配した。
 足音はまだ続いている。だんだんとこちらに近づいているようだ。同じ部署の人間かとホメロスが考える前に、直線状にあるドアが開いた。
「ホメロス!」
「……グレイグ、騒がしいぞ」
「すまんすまん。だが、間に合ってよかった」
 汗を拭いながらグレイグは手近な椅子に腰を下ろした。袖をまくりネクタイを少し緩めた格好を見るに、帰宅してすぐにホメロスの連絡を確認し、食器を洗い、買い物を済ませて滑り込みでここに来たのだろう。ホメロスはそんな推理を繰り広げながら冷めたコーヒーをまた啜った。
「ドリンク系はありがたいが、食べ物はないのか食べ物は」
 私は腹が減ってるんだ、と主張するホメロスに、グレイグは紙袋を抱えて不思議そうな顔をした。
「これはハンバーガーだ。ホメロス、知らないのか?」
 ホメロスがハンバーガーの存在を知らないと思ったのか、グレイグは二十四時間いつでも買えるお手軽フードだぞと丁寧に説明する。外食をあまりしないホメロスは残業のストレスも相まって、グレイグに教えられたことに青筋を立てた。そんなホメロスのことは気にも留めずに、グレイグは紙袋をがさごそと鳴らし、小ぶりのハンバーガーをホメロスに見せた。
「この包みを剥けば手を汚さずに食べられる。剥いてやろうか?」
「食べ方くらい知らないわけがないだろう! それを渡せっ!」
 グレイグの手からハンバーガーを奪い取って、ホメロスはおそるおそる包みを開いた。バンズに挟まったレタスやらパテやらに、つやのあるソースがかかっていて、胃が早くそれを持ってこいと鳴いている。これにかぶりついて食べるのかと、未知の食べ方に少しためらったが、ひとくち齧ってしまえばあとは自然とバーガーが口に運ばれるようになった。そうやって無言で食べ続けるホメロスを、グレイグも自分のバーガーを食べながら眺めていた。
「ふむ。なかなかに美味だった。それにしても、わざわざ来る必要などなかったのだが。……連絡は入れただろう」
 最後のひとくちを飲み込んだホメロスはグレイグに問うた。
「それとも暗くて眠れんか?」
 暗いのは平気になったんじゃなかったのかと、意地の悪い笑みでからかう。
「なにも食べてないんじゃないかと心配でな」
 グレイグは続けて、暗いのはさすがにもう大丈夫だとあけすけに言い放った。どうやらあまり効果がなかったようである。対してホメロスは、図星を指されて言葉につまった。
「心配などけっこうだ」
 早く帰れ、を口にしかけて、もう会社は施錠されてしまったことを知る。時計はまき戻せても、時はまき戻らないのだ。ホメロスは言葉の代わりに小さくため息をついた。険しい顔をして、過ぎたことは仕方ないと仕事に専念することにした。そんなホメロスに構いもせず、グレイグは話を続ける。ホメロスは目線すら寄こさなかった。
「理由なら他にもあるさ。あの家は、一人じゃいささか広すぎる」
 やはりホメロスがいないとダメなようだ。
 微笑む同居人の言葉に、ディスプレイを睨むホメロスの表情が少し和らいだ。

 
 

(20170930:第1回グレホメワンライ「フリー」)