ちゃんとしたお別れを、出来ていただろうか。悔いの無いさよならを言えただろうか。
軟弱な人。平凡な人。だれよりも平凡で、だれよりも秀才であった人。だれよりも優しい人。私の大好きな人。
――思えば、私は彼に一度も好きだと伝えたことがなかった。そんな時間がなかったのだ。と言えば嘘になる。四文字――たった四文字だ。好きです、と、言う時間がなかったなんて、滑稽な嘘にもほどがある。
結局のところ私になかったのは、それを告げる勇気だったのだ。言えなくなる日が来るなんて考えもしていなかった。その可能性から目を背けていた。きっといつか、この大冒険が終わったら――。
そんな私の弱さが招いた、ようするに自業自得の結末だったのだ。
魔術の王。グランドキャスター。その冠を被る、ソロモンという人物の消失。避けられなかった、ドクターの死。いや。それは死を超えた無への回帰だった。
彼が宝具を展開する、その一秒一秒を私は見ていた。止めたい自分と、止めてはいけないと自分を押さえ込む自分との葛藤。あのときの、思考の乱れぐあいは目も当てられない。それは今でも覚えている。
あれから、随分時間が経った。
二〇一七年某日。私はようやくその事実を認識した。ソロモン王の功績は、取るに足らないものになっていたのだ。あるいは、別の誰かが築いたものに。そこにソロモンの名はあれど、誰も見向きすらしない情報になっている。その事実が、私の胸を穿つ。いっそ出血でもしてしまえばいいと思えるほどの痛みだった。
英霊であった彼は消えた。人間であった彼も消えた。ふらふらと、ふわふわと好き勝手に漂って。私の想いに気付かないふりをして。私に――戦えと言葉を残して、世界から消えた。私が見たこともない、一番の優しい笑顔まで添えて。
ひどい大人だ。いたいけな少女の純情を弄んだ。一発殴らなきゃ気が済まない。けどそう思うたびに、それが適う時は二度と訪れないのだと、鋭く尖った現実を突きつけられた。
行き場をなくした拳が、強く空気を握りつぶす。先日きれいに切りそろえた爪は、私の手の平に食い込むに至らなかった。少しだけ皮膚に爪痕を残して、それで終わる。
悔いのないさよならは言えなかった。全てが唐突すぎたあの場で、悔いのないさよならなんてなかった。想いを伝えなかった時点で、私の後悔は決定したのだから。
けれど。私がそれを選ばなかったのは、カルデアの司令官代理に、最大限の敬意を払うことこそがふさわしいと判断したからだった。それにおいて、私に後悔なんてものはなかった。
矛盾、している。私の心は矛盾していた。後悔はないと、その言葉で自分を支えなければもう立てなかった。自分の言葉が、彼の決意を鈍らせるかもしれないと自惚れたから、あの四文字を言えなかった。
「好きです、ドクター」
私は彼のことを一生忘れないだろう。
私の青春の全てを奪っていった彼を。
一発と言わず、数回は殴らなくちゃ気も収まらないほどに憤りを覚えた彼を。
忘れない。たとえ、次第にソロモンの名が薄れていったとしても覚えている。彼がソロモンという英霊として、そして、ロマニという人間として決断した勇気を忘れない。
「なんだか、ふらりと帰ってきそうな気がするんだよね」
自室で。だれもいない空間に向けた言葉は、泡のように消えた。私が私のために向けたようなその言葉は、傷口をなめるときと同じ苦みを伴っていた。
目元が熱い。無意識に手で拭うと、制服の袖が濡れた。ひやりとした感覚に、現実へと引き戻される。ナイフのようだった現実は、時間の経過によってその刃を曇らせていた。二〇一七年がもうすぐ終わる、この時になってようやくそう感じた。もう、私の心に傷をつけるには至らない刃は、さながら自身の爪のようだ。痛覚だけ呼び起こして、日常の中に、なにもなかったかのように消えていく。そしてふとした瞬間に、またその痛みを思い出す。
――ちゃんとしたお別れを出来ていたら、思い出せなかったかもしれない痛みだ。でもいつまでもその痛みに、苦しんでいる場合じゃない。私はこれからを、私の記憶の中にいるドクターと共に紡いでいきたい。それが、私の意思だった。だから、今日の朝は問いかけじゃなくて、この言葉を贈ろうと思う。
さよなら、ロマニ・アーキマン。私の青春を、すべて奪っていった人。
(20181012)