一度だけ、こんなことがあった。
「仕事」に駆り出されたときの話だ。ジークがまだまともに戦えるようにまで成長していなかった頃。まだショウくんたちがあの牢獄にいなかった頃。私とユウゴが、いつも二人で仕事をしていた頃。
ペニーウォートの近くの仕事場で、いつものように仕事をしていた時のこと。あの広大な戦場にある、風化した大聖堂の広間で小型のアラガミを倒して、その日の仕事は終わりを告げた。後は命令通りに即時帰投し、腕を繋がれ、あの掃き溜めのような牢獄で朝が来るのを待つだけ。お腹は空くし、眠気は来ない。看守の目が、ずっと私たちを見ている。地獄のようだと誰かが言ったのを、私はよく覚えていた。
地獄ってなに、とユウゴに聞けば、彼は「ここみたいな場所のことだ」と言った。他でもない、頭の良いユウゴがそう言うのだ。だから私は、あそこを地獄だと思っている。
戻りたくない。そう思う私の心を、私は飲み込んだ。一度口にしてしまえば、きっと歯止めが聞かなくなる。看守どもにも聞かれてしまう。その日のあいつらはかなり機嫌が悪く、そんな言葉を一言でも話せば間違いなく懲罰房行きだっただろう。それに、戻りたくないのは隣にいるユウゴも同じだと思うのだ。決して口には出さないけれど、いつか盤面をひっくり返してやると意気込むその裏には、私と変わらない感情があるんじゃないかと思っている。その思考と自制心が働いて、私は今日も声を発さないまま帰投準備を始めた。
異変が起きたのはその時だった。
『……い、………な! はやく……ろ……!』
「ん?無線の調子が悪いのか?」
ひどいノイズだった。まれに起きる無線機の不調。今思えばあれは、どこかで起きた灰嵐のせいだったのだろう。すぐに復帰するので特に気にも止めていなかった。ただその不調が復旧するまでの数分は、私にとっては束の間の自由がもたらされる幸せの時間だったのだ。
「……切れた」
「だな」
私が素直に状況を呟くと、ユウゴは即座に相槌を打ってくれた。
「ま、ちょうど良いじゃねえか。ほら、ちょっとゆっくりしていこうぜ」
ユウゴが地面に座り込んだ。私は両腕を投げ出して、地面に寝転んでみる。
綺麗な空だった。壊れた天井から見える空は、平和だった時代とは比べる価値もないのかもしれないけれど、その日の空は、私が知る中で一番綺麗な空だった。割れたステンドグラスに反射した太陽の光が、私たちのいる地面をキラキラと照らしている。眩しいくらいだ。静かな時間が流れるその大きな空間はとても穏やかで、私に与えられるには勿体ないくらいの、一種の清浄さがあった。
「綺麗な空だよな」
彼がそう呟く。私は言葉を返さずにユウゴの方を見た。彼も空を見上げて、じっとそのどこか一点を見ていた。あまり見かけない、彼の黒い髪が光を受けている姿は、アラガミには無い神々しさを見たような気がして、思わず見惚れてしまうほどだった。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
視線は動かさず、ユウゴはそれを言葉にした。問いかけは決して、見えない何かに対して投げられたわけではない。それが分かってしまうほどの意思を持っていた。これは、私に投げかけられている。
「……ユウゴ、それ、難しくてよくわからない」
「どこかの国にあったらしい、昔の言葉だ。まあ要するに、どんな時でも相手を思いやっていこうなっていう誓いの言葉さ」
良い言葉だろ? と言うユウゴに、私は頷いた。言葉の意味はほとんどわからないけれど、相手を思いやることができるのはいいことだと思う。私はユウゴにそれを教えられたし、ユウゴがいたから、あの看守どもに無用な憎しみを抱かずに済んでいる。いつかこの生活を変えてやろうと思っている。そのためには、こんなところで参ってる場合じゃない。そう思うと、なんだか元気が出てきた。
むくりと起き上がると、ユウゴの顔が近くなった。相変わらず私のことを見つめたままだ。少し怪訝に思って首をかしげると、ユウゴは珍しく微笑んでこう言った。
「なあ。俺は誓うよ、お前に」
それがなんだか寂しそうに見えたのだ。滅多にこんな顔はしないのに、とか、どうしてこんな時に、とか。色んな感情が私に渦巻く。不思議で仕方がなかったのだ。とも言えるし、ユウゴの寂しそうな顔はあまり見たくないなとも思った。
「お前は?」
だから私は、彼を抱きしめることにした。幸いにも両腕は自由だ。戦闘の最中でも見られない、驚くユウゴの顔が面白くていつまでも見ていたくなったけれど、今回はそうもいかない。なにせ、時間がないのだから。
「私も、誓うよ?」
土まみれの服や髪を、せめてもう少し綺麗にしておけばよかった。そんなこれっぽっちの後悔と申し訳なさを抱えて、私はユウゴの頭を抱き寄せた。いつも頑張っているユウゴに、少しでもこの感謝が伝わればいい。そう思ったのだ。
私より低い位置にユウゴの頭があることに、少々むず痒い心地がする。土と、汗と、それに紛れるユウゴの匂いがした。若干戸惑った手つきでユウゴが抱きしめ返してくれたから、私はもう少しだけ強く、彼のことを抱きしめた。
遠くの方で、鐘の鳴る音がする。どこか壊れているのだろう。不協和音を奏でる鐘の音が、私たちに降り注いでいた。
私がユウゴを慰めたのは、後にも先にも、この時だけだ。
「あのあと通信が戻って、虫の居所が悪かった看守に懲罰房に入れられたんだっけ」
「うっわ、あの時のってそれだったのかよ……」
「死なないようにやるのが上手いよね。戦闘への支障はこれっぽっちも考慮してないけど。ジークやキースには、怯えさせて悪かったなあと思ってるよ」
「まあ、さすがに最初だったしビビったけどよぉ……」
神機を下ろして、戦闘態勢を解く。帰投を急かす、あの耳障りな声を聞かなくなって久しい。今はエイミーの優しい声が、耳元でバイタルが正常値に戻ったことを伝えつつ、こちらを案じてくれている。ここでは何を話しても、誰にも咎められない。通信の切断さえしなければ、マイクのみ切ることだって許されている。──考えたことはあったけれど、理想のまま終わると思っていた現実がそこにはあった。
「ほら。回収作業、早く終わらせよう」
任務完了後の回収作業は、案外のんびりと行われた。このあたりの素材は潤沢に積み込まれているから、当然といえば当然だ。取り急ぎ必要なものがないので、船の軌道を損なわないために、荷物は最小限に。これは灰域踏破船クリサンセマムでの基本だもの。だからといえば、サボらないでと怒られるかもしれないけれど、話に花が咲いてしまって。
「それにしても、ユウゴも案外意地が悪いよな」
まあ少しくらいなら、無駄話も許されると思う。あの船ならば。
それに、たしかに私は、ユウゴみたいに頭はよくなかったけれど、ジークが言ってる意味だって、今はちゃんと分かるんだ。そう思うと、自然と笑みが溢れる。私だって、いつまでも子供じゃない。
「ジーク。もう何年も前の話だよ。私だって、勉強してるからね」
だから、ニヤニヤと笑うジークに対して、意味ありげに微笑んで返してあげると、彼は面食らったまま動きを止めた。私はそんなジークを置いてけぼりにして、回収作業で貯まった素材の整理をしながら静かになった戦場を歩く。
「え、ちょ、それどういう意味だよ!?」
前言撤回。私はみんなが待つ船へと帰還するべく、追いかけてくるジークのせいで煩くなった戦場を後にした。
「ちょっといいか」
私がユウゴに呼び出されたのは、帰還してからすぐのことだった。今日の出迎えは盛大で、クレアやフィム、イルダさんにリカルドさん、ルルにエイミーにキースにと勢揃いだった。もちろんそこにはユウゴもいて。その状況での呼び出しなのだから、さすがの私でも少し緊張するというもの。
「なに、ユウゴ、」
微笑ましそうに私を見るみんなの視線を引きつけながら、ユウゴが私の手を引いた。それもかなり強引に。「わっ」と間抜けな声が出て、もつれた私の足が不規則なリズムで音を立てる。そのままブリッジから出るつもりなのか、出口に向かってずんずんと進んでいくのだ。これは、まさかの、予想外だ。
「ユウゴくん、ほどほどにしてあげなさいよ」
イルダさんの声に、ユウゴの動きがぴたりと止まる。まるでさっきのジークみたい。というよりは、ジークがユウゴに似たのかもしれない。
「……善処する」
ガコンと扉が閉まる音を合図に、私はまたユウゴに腕を引っ張られるのだった。
男性の乗組員室に連れて来られ、備え付けのソファに座らされるまでユウゴは一言も話さなかった。そこで初めてユウゴの顔を見て、私は少しだけ焦ることになる。座った私の目の前にいるユウゴは、表情こそ変わらないものの、耳まで赤くしていたのだ。
「ユウゴ、顔赤いよ。体調悪いなら休まなきゃ」
ただでさえ睡眠不足なのに、勉学のために睡眠時間を削ることが増えたのだから。そう言うとユウゴは「誰のせいで赤いと思ってるんだよ……」と私を見て言った。まるで私のせいだと言わんばかりの視線だ。
「ジークに喋るだけならともかく、戦闘中に話せば船に筒抜けになるのはお前だって知ってるだろ……」
手のひらで顔を覆うユウゴを見て、こんな顔もするんだな、と少し嬉しくなる。眉間にシワを作って怖い顔ばかりするから、もっとそんな表情で普段から過ごせばいいのに。そこまで思って、私は少し胸がもやりとした。
晴れない気分の原因は分かっている。だから私は、みんなに聞こえてしまうあの戦いの最中に、あの話をしたのだ。
(意地が悪いのは、私の方だから)
ユウゴが勉学に励むのは嬉しい。でも学友の、特に女の人の話をするのは嬉しくない。ユウゴのことを一番よく知っているのは私だからと、大声で主張できない私はやっぱり意地が悪いやつなのだ。だからこんな幼馴染に出会ってしまってごめんね、と心の中で謝っておいた。ごめんねユウゴ、悪い子で。
「てか、お前、あの話覚えてたのか」
手に遮られていないユウゴの片目が、ちらりと私を見る。彼にはなんだか思うところがあるようだった。いつもははっきりとした口調なのに、おそるおそる、確かめるように聞いてくるのが面白い。数日前に立ち寄ったミナトで聞いた、どこかの誰かが口にしていた「クールでかっこいいユウゴさん」はここにはいない。彼女たちが知らないユウゴの表情が見られることに、私は仄かな優越感を感じていた。
「覚えてるよ?」
「数年前の話だろ……」
「ユウゴの話は難しかったけど、全部覚えてる。それに、あの言葉の意味も、もうわかるんだ」
ユウゴは色々なことをたくさん教えてくれたし、私もなるべく、たくさんのことを学ぶように努めてきた。知識は必ず力になる。それを信じて生きてきた。あの誓いの言葉は、きっと生きるためには必要ない知識なのだと思う。けれど私はどうしても、あの言葉について知りたかったのだ。あれには、ユウゴが私に教えてくれたこと以上の、特別な意味がきっとあると思ったから。
私がそう言うと、ユウゴはいつになく真剣な表情になった。見慣れているはずなのに、怖いくらいだ。
私は、ユウゴの左手を軽く取った。これを、真剣に聞いてもらえるのは嬉しい。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
真っ直ぐに目を見て、その黒い瞳が揺れる様を観察する。手に取ったユウゴの左手の薬指を、親指ですっと撫でる。
「私は誓うよ。今度はちゃんと。ユウゴと、ここにいるみんなに」
にこりと微笑みかける。ユウゴはまだ動かない。
「ユウゴは?」
そう問いかけると、ユウゴは魔法が解けたみたいにゆっくりと膝をついて、私の左手を取った。そのままするりと指を絡めて、私の肩に頭を預けてくる。不意打ちのせいで後ろに倒れそうになるも、すぐに持ちこたえた。
くしゃりと乱れたユウゴの黒髪は、無香料を謳う整髪料の香りがしたけれど、何よりもユウゴの香りが一番強かった。顔が見えないのは前と変わらないなと思いながら、私はそれを静かに受け入れた。少し身じろいだ彼の頭に、軽く頬を乗せてみる。
ここはあの壊れた大聖堂みたいに広くはない。綺麗な空も、太陽の煌めきもない。あの空間の何分の一でしかない小さな部屋で、明かりも人工灯だ。
「……ああ、俺も誓うよ。お前と、ここにいるみんなに」
でも、ユウゴの声が震えていないから。ここはきっと、あの綺麗で排他的で危険に満ちた式場とは違って、私たちに優しい、温かさを持った場所なのだと思った。