心臓からいただきます

 
 

※名前あり
※再録はネームレスです
 

 明日、感謝を伝える日にしようと思って。
 トウゴがエイミーにそれを伝えたのは、暦の上では2月の、それももうすぐ半ばを過ぎるかというところだった。
 早朝のブリッジは、まだ少し足元に冷気を残していた。機器の駆動音は、ひとけのない空間に微かなノイズを振りまいている。そんな中、エイミーのはつらつとした声がいつもより大きく響いた。
「感謝を伝える日! いいですね!」
 大きな瞳を輝かせて、彼女はカウンターから身を乗り出す。押されるほどの勢いに、トウゴは思わず一歩後ずさった。反面、彼女がこれだけ反応を示すのだから、自分の提案は的外れなものではないのだろう、と僅かな自信がトウゴを支える。口にするのも、実は少し恐ろしかったのだ。
 別段何かに怯えているわけではない。自己肯定感が若干欠落している彼にとって、他者による肯定が何よりも安心する。それだけのことである。それに、これでも改善された方なのだ。
 すみません、と頬を染めて恥ずかしそうにカウンターの中へ戻っていくエイミーを、彼は微笑ましいと思った。
「でも、ただお礼を言うだけなのも味気ないなと思ってさあ」
 ひとつ咳払いをして、彼は今悩んでいることをエイミーに相談することにした。早朝という時間を選んだのもそのためだ。
 この話を聞かれたくない人物がいる。そう考えるのが妥当であり、エイミーのその推測は正しかった。彼は、彼の幼なじみであるユウゴにだけはこの話を聞かれたくなかったのである。
 昨晩遅くに眠ったユウゴがこの時間に起きることはまずないだろう。それは彼も理解していたが、秘密を抱えるというのは多少の保証があってもドキドキするものである。トウゴの目は、周囲を気にするようにふらふらと視線を彷徨わせていた。
「なるほど。なら、チョコレートはどうですか?」
「ちょこれいと?」
 聞き覚えのあるような、ないような。不思議な言葉にトウゴは首を傾げた。
「それって、お菓子?」
「そうですよー。疲れた時には甘いもの、っていうじゃないですか。本当は果物がいいんですけれど、青果よりはまだチョコレートの方が入ってくる可能性は高いですね。嗜好品の中でも保存が利いて、エネルギー貨も高いそうで良く重宝されているようですよ。アラガミの討伐率が世界的に上がったおかげか、最近は入手も少しずつ容易になりつつありますし」
 これですよ、とエイミーがトウゴに渡したのは、一欠片のチョコレートだった。手の平に載せられたそれを、珍しい生き物でも見るようにジッと眺める。
「特別に、私のおやつ、あげちゃいます」
「……これ、貴重なんだろ? 俺にあげちゃって良いのか?」
「もちろんですよ。トウゴさんが毎日頑張っていること、私も知っていますから。これは私からの感謝の気持ちです。……ちょっと小さいんですけれど、これしか用意出来なくて」
「いいよいいよ。こんな貴重なもん、俺にはもったいないって。ありがとなぁ」
「もう……トウゴさんはもっと自分に自信を持ってください」
「はは、まあがんばるよ」
 溶けちゃうので早く食べてくださいね、とにっこり笑うエイミーに礼を言い、トウゴは再びそのかけらを見つめた。すん、と息を吸うと、甘い香りが鼻腔いっぱいに広がって次の瞬間にはそれを口に入れていた。指の先くらいの大きさしかないのに、それが放つ香りはとても魅力的だったのだ。
「あっま……! けど、美味い……!」
 とろけるような甘みに、痺れるような香ばしさが脳の髄まで一気に駆け抜けた。じわりと舌の上で溶けるそれを、もっと堪能しようとかみ砕く。小さな欠片は一瞬でなくなってしまったが、トウゴの表情は破顔したまま戻らない。
「子どもたちと、フィムと、ああジークやキースもこれなら大丈夫そうだ」
 次々と変わる表情。早口で話すその姿は、まるで面白いものを見つけた子どものようだった。これでは、フィムとどちらが上か分からないほどだ。
 今度はエイミーが、彼のその様子を微笑ましそうに見ていた。しかし、それもつかの間のことだ。彼の陽の気が、みるみるうちに陰っていく。どうかしたのかと彼女が聞く前に、トウゴがぽつりとその理由を零した。
「問題はユウゴだな……」
「ユウゴさんですか?」
「うん。ユウゴがこういう嗜好品を食べてるところって、俺、実はあんまり見たことがなくて。苦手だったらどうしようかなぁ。食べ物じゃないほうがいいのか?」
「どうしてもチョコレートにこだわる必要はないと思いますよ?」
「いや、だってなあ。こんなに美味いもの、初めて食べたし。せっかくだから皆にも食べさせてやりたくてさあ」
 こだわってるわけじゃないんだけど、と彼は苦笑した。好きなものを共有したいというその感情が素晴らしいものであることを、トウゴは未だに理解出来ていなかったのである。
 エイミーは少し悩んで、あっ、と小さく声を上げた。
「ユウゴさんはよくコーヒーを飲んでいるみたいですし、チョコは確かにコーヒーに合いますが……差し入れと言ってまずはココアを渡して反応を見てみるとかどうですか? ココアが飲めるなら、きっとチョコレートも大丈夫ですよ!」
「あ、そうだな。まあ、ダメだったらチョコレートじゃなくて、無難に消耗品でも渡すことにするよ」
 まずはチョコレートの入手だな。とトウゴが意気込んだところで、ブリッジにリカルドが顔を出した。早いな、とトウゴやエイミーに話しかけ、そのまま今日の仕事の話へと話題は移り、そのままこの話はお開きとなったのだった。

 

 部屋の片隅で、日付の切り替わりを知らせる時計の音が鳴った。十三から十四へと数字が切り替わる。だが、今のユウゴにとってはただの雑音でしかない。目の前に広がる、既に頭に叩き込んである資料とそれを参考にしたミナト運営のシミュレーションレポートの作成が、彼の今晩のノルマである。空になったマグカップは、乾ききってコーヒーの染みが底に張り付いていた。
「はいユウゴ。コーヒーとココア、どっち飲む?」
 一息入れるか、と伸びをしたところでタイミング良くやってきたのはトウゴだった。手には湯気の立つマグカップが二つ。ユウゴにとって、願ってもない差し入れだ。
 用のない空のマグカップを遠くへ追いやり、それを受け取る準備をする。見るのに飽きた文字だらけの資料を閉じて、ユウゴは彼の方へと顔を向けた。
「おすすめは?」
「おすすめはココアかな」
「じゃあそれにするか」
「りょーかい」
 トウゴが右手に持っていたカップを受け取ると、甘い香りがユウゴの鼻をくすぐった。飲み慣れたコーヒーとはまた違う、不透明な液体がちゃぷりと揺れる。
「隣、いいか? 邪魔だったらあっちに座るけど」
 もちろん隣で構わない。ユウゴがそんな返事をすると、彼は嬉しそうにユウゴの隣に座った。左手に残ったマグカップを空いたスペースにおいて、ユウゴが見ていた資料をぱらぱらとめくり、険しい顔をしたかと思えば誰かが置きっぱなしにしていた娯楽雑誌に手を伸ばす。そして彼は、置いたばかりのコーヒーを飲んで、流し読みした雑誌をまた適当な場所に置いた。せわしないことこの上ないのだが、ユウゴはそんな彼のことを一瞥すらせずに、ずっとマグカップの水面を見つめていた。
「飲まねえの?」
 不思議に思ったトウゴが声を掛ける。ユウゴから返ってきたのは、よく分からない言葉だった。
「これって、そういう意味で受け取っていいのか?」
 ユウゴの黒い瞳に映る、自分の顔が滑稽だったと後に彼は語った。
「そういう意味?」
「あー……なんでもない。忘れろ」
 ぽんぽんと、あやすように彼はトウゴの頭を撫でた。子ども扱いするなと、むっとした表情で反抗するトウゴを余所に、彼はようやくそのココアを一口飲み下した。
「ん。かなり甘いな」
「やっぱ苦手?」
「たまにはいいけど、そう何度も飲めねえ」
 コーヒーの苦みと酸味に慣れていたせいか、ココアの甘さにユウゴは少々その表情をゆがめた。
 作戦自体は成功だが、ユウゴにはやはり消耗品を送ろう。トウゴはひっそりとそう決心した。消耗品なら、明日到着予定の行商人からでも買うことが出来るだろうし、ユウゴだけ贈り物がないまま日頃の感謝を伝えるようなことにはならなさそうである。昼間に手配したチョコレートがひとつ余ってしまうことだけが少し残念ではあったが、自分で食べてしまえばいいかと深くは考えなかった。
「お前が飲んでるのって、コーヒーだよな?」
 適温に冷めたのをいいことに、勢いよくコーヒーを飲んだ直後のことだ。彼の手に収まるマグカップを眺めて、ユウゴがそう言った。
「そうだけど。飲む?」
 恐らく口直しがしたいのだろう。トウゴはあと数口程度になった軽いマグカップを、その視線に向けて差し出した。
「いや、こっちでいいわ」
 瞬きなんて、するんじゃなかった。
 このときトウゴの思考を埋めたのは、そんな後悔だった。唇に触れた薄い皮膚の感触も、その体温も、今自分に何が起こっているのかも。その刹那、全てを忘れていた。
 意識が現実を見つめたのはその後のことだ。ぬるりと唇を割って入ってくるそれがトウゴの歯列を掠めた瞬間、彼は状況を理解した。本能的にそれを外へ押し出そうとして、その思いがけない甘さに脳が痺れる。ただマグカップを落とさないように、必死の思いでそれを握りしめた。その間、本当に一瞬だったのだ。
「ごちそうさん。美味かったよ、ありがとな」
 何事もなかったかのように、ただ食事を済ませたかのようにユウゴは挨拶をして部屋から出て行った。作りかけのレポートは置いてけぼりだ。その耳が赤いことに気づかなければ、きっとトウゴは、困惑の中に怒りを含めていたかもしれない。
 その「うまい」がどれを表しているのか、トウゴにはさっぱり分からなかった。分かったのは、ユウゴの舌が想像以上に甘かったことと、その味が、試しに飲んだココアの味よりもずっとずっとおいしかったこと。そして、空になったマグカップが二つ、ユウゴの座っていたところに残されていたことだけだった。
 顔が熱い。いや、全身が熱いかもしれない。口元の感覚はまだリアルに残っていた。皮膚の内側から、鼓動が激しく胸を叩いている。一人取り残された空間で、今一番煩いのは、間違いなくトウゴの心臓だった。

 
 

(20190216)
GE世界でのバレンタイン事情が分からないので9割捏造しました。もうほとんど全部妄想です。