あの蜃気楼をつかめ[前] - 1/4

 

 雨上がりのアスファルトは苦い匂いがしていた。見上げた空はまだ曇っている。少し寝不足で、かみ殺すせいであくびが止まらなくて、前が見えなくなって水たまりを思いっきり踏みつけてしまった。私服で良かった、と思いながら走り続ける。滑らないように少しだけ慎重に、けれど早足で階段を下りると、やってきた電車がちょうど扉をあけるところだった。ゴトゴトと揺られていると、つい眠ってしまいそうになる。それをなんとか振り払って、きちんと予定通りの駅で降りた。
夕方の帰宅ラッシュに差し掛かる頃に、俺は事務所のドアを開けた。入口のマットで念入りに拭いたスニーカーは、キレイに清掃された事務所の床をなんとか汚さずにすんだ。
「イツキくんおかえり~!」
「いやいやマイコさん、ここ俺の家じゃないです」
「なによぉ、前はただいまって返してくれたのに~」
「あれはここから仕事に向かってたからですよ」
「一緒じゃない」
「一緒、ですかね?」
「同じよ、同じ! だから、ほら!」
「わッ!?」
学校おつかれさま。俺の両肩を掴み、力任せに社長席に座らせて、マイコさんはにこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。……ただいま帰りました」
顔に熱が集まって、思わずマイコさんから目を逸らした。頭の上から、満足そうなおかえりなさいが聞こえてくる。
「今日は、みんなはどうでしたか?」
なにか他の話題にしよう。そう思って、いつもの質問をする。マイコさんはすぐさま仕事モードに切り替わり、デスクに置いていたスマホを手に取って確認し始めた。
「順調に仕事をこなしてるわ。さっきツバサちゃんから連絡があってね。これから最後の仕事のスタジオに向かうって言っていたから、これで全員が今日のスケジュールの最終にまで到達したことになるわね」
「ツバサ、仕事の量がまた増えてませんか?」
「そうなのよ〜。断りましょって提案しても引き受けちゃうから困ってるの。このままだと倒れちゃうと思うのよね」
「なんでそんな無茶を……」
「私はね、シーダがいなくなったからだと思ってるの」
「え……?」
マイコさんの静かな声が、二人きりの事務所に落ちた。空気が重くなった気がするのは、俺があの日の別れのことを少なからず思い出したからだと思う。ささやかな祝福だけを終えて、幻のように消えてしまった俺たちの仲間のことを。
シーダは、ツバサの相棒だった。上品で、優しくて、冷静な人で、ツバサとはいいコンビだったと思う。ツバサからすれば、きっともう一人のお姉さんだったんじゃないだろうか。だったら、一度お姉さんを失ったツバサにとって、あの別れは俺の想像以上につらいものだったに違いない。
マイコさんの言葉をゆっくりと紐解く。少しずつ、自分たちの仲間だったあの人たちのことが記憶の中に蘇ってきた。
「何かをなくした寂しさをね、仕事とか、勉強とか、そういうものの忙しさで誤魔化しちゃう人もいるわ。イツキくんにも覚えがあるんじゃないかな」
「…………いや、俺は……」
あります、とも、ありません、とも言えなかった。膝の上で抱えていたカバンを持つ手に力が入る。教科書の角が手のひらを押して少し痛かった。
進学を選んだのは、経営学を学びたかったからだった。ひとつの大きな会社を代表する立場になるのだから、その知識を持っておくべきだと思ったからだ。それをマイコさんに相談すると、マイコさんは全てを分かったような顔をしてそれに賛成してくれた。俺は、マイコさんのその顔を見て実はとても安心したんだ。
世間に多大な影響を与えるアーティストたちを抱える会社の、トップに立つことが怖かった。ミラージュマスターではなくなって、高校も卒業して、芸能の仕事も辞めて、会社の代表としての肩書きだけでしか自分の立っている場所を説明出来なくなる。それが怖かった。フォルトナの社長ではない蒼井樹という人間は、一体何者なのだろう。まだ、なにも分からないままだ。だからなのか、社長という自分自身の影に飲み込まれてしまうイメージが、ずっと頭から離れない。
会社を背負う覚悟は全く揺らいでいないのに。そう思うとなぜか余計に不安が大きくなる。知らない世界にひとりで放り出されたらこんな気分なんだろうか。周りの世界はなにひとつ変わっていないのに、俺だけが立ち止まっているような気分だった。
同じことをぐるぐると考えていても、止めてくれる相棒はもういない。この心の機敏を丁寧に拾い上げてくれていた人は、あの日を最後に帰るべき場所へ帰ってしまった。
俺は、行かないでほしいと言えなかった。あのとき頭の中を駆け巡ったのは、俺の本心を覆い隠すほどに膨大な、一種の諦めのようなものだった。
あの戦いが終われば、ミラージュたちが元の世界へ戻ることを考えるだろうということは分かっていた。ミラージュたちは俺たちの世界にあるパフォーマを集めるための道具として使われていたのだから、その必要がなくなればこの世界に残る理由もない。だから、敵の支配下ではないとはいえ、クロムたちも俺たちの世界に残る理由がない。クロムたちが帰ることを決めたのだって、クロムたちの意思で決めたことだと思った。だったら、俺がそれを引き留めることは出来ない。
クロムだけが、俺の気持ちに気付いていた。クロムに俺の心が分かるように、俺にはクロムの心がわかる。最後の最後まで、俺たちはミラージュとマスターの関係だったと、それだけが証明している。別れの悲しさも、戦いだけではなかった思い出を振り返ったときの楽しさと懐かしさも、クロムにもう一人でも大丈夫だと認めてもらえたことへの嬉しさと寂しさも、全部クロムは向こうの世界へ持って行ってくれたはずだ。
そしてそれ以来、俺は少しずつあの戦いの記憶を忘れていった。大学が忙しくなるにつれて、忘れる速度も早くなった。授業が終わるとすぐに事務所に向かって、マイコさんから仕事を引き継ぐ。空き時間で色々教えてもらうこともあった。ツバサたちと会うことはあまりなくて、業務連絡のトピックだけがたまっていた。それを寂しいと思うこともなく、眠りにつく。そんな毎日を受け入れている理由に、覚えがないと言えば嘘になる。
「俺は……最近ツバサと話が出来てません。だからツバサがどうしてそんな無茶をしているのか、まるで想像がつきませんでした。マイコさんに言われて初めて知ったんです。これじゃあ俺、マイコさんの代わりにはまだ……」
「あら? 私はイツキくんに『代わりをしてくれ』なんて頼んだ覚えはないわよ?」
「でも、マイコさんみたいにはなれません!」
「そうね。だってあなたはイツキくんだもの。私じゃないわ」
「そういうことじゃないです!」
「難しいことだけれど、そういうことよ。イツキくんはイツキくんのやり方でみんなを支えていくの。私は私のやり方で、イツキくんを支えるつもりよ? 頼りないかもしれないけど」
「頼りないわけ、ないじゃないですか……」
俯くと、涙が落ちそうだった。けれど俯かずにはいられない。マイコさんの前で、涙は見せたくなかった。
「ありがとうイツキくん。じゃ、今日はもう帰りましょうか」
「事務所はどうするんですか。今日の仕事とか、みんなの報告とか」
「そのまま帰ってもらって、なにかあれば連絡してもらえばいいんじゃないかな〜と思うのよね。他の仕事は、なんと今日はほとんど終わってるのよ~!」
「絶対ぜんぶ嘘ですよねマイコさん」
「やだやだ、嘘なんて。イツキくんが成人していたら、このまま飲みに連れて行ってあげたいくらいなのに」
「それは遠慮します」
「ひどーい! 絶対付き合ってもらうわよ!」
「絶対俺が連れて帰ることになるじゃないですか……」
マイコさんと話すうちに、目元に集まっていた熱が引いて涙も出なくなっていた。この人のこういうところが、今まで俺たちをさりげなく引っ張ってきてくれていたのだと思う。
「じゃあ……お言葉に甘えて、今日は帰ります」
「うんうん。また明日ね」
「それと、ツバサと話をしてみようと思います」
「……そうね。イツキくんになら、ツバサちゃんも話してくれるかもしれないわ」
「はい。それに――俺にもやっぱり、覚えがありますから」
俺がそう言うと、マイコさんは少し表情を緩めた。その顔に、心当たりがある。俺が大学に通いたいと言った時の、あの、何もかもを分かっているような優しい顔だ。まったく、この人にはかなわない。
「俺も、たぶんツバサと同じなんです」