果てへの祈り

 
 

 砂埃と空模様しか見えないはずなのに、帰投準備が整うまでの僅かな時間、ユウゴはずっとそこを見続けていた。ペニーウォートがあった場所、その周辺での任務に就くと、ユウゴは時々そうなった。
 俺は、その理由を知っている。あのおぞましい記憶と共に、今でも鮮明に思い出せる。ユウゴが見つめる視線の先、不思議な形にえぐれた岩の更に向こう側。世界が優しくなんてないことを痛感した、俺たちの初陣の地――ユウゴの暮らしていた場所。
 ここからじゃ、その様子をうかがうことは出来ない。百を超えるアラガミは、俺たちが今ここに立つまでに駆逐されてしまった。あんな絶望は存在しなかったとでも言うように、静かに風が吹いている。
 かつての光景を瞼の裏に描くと、耳には看守の声が聞こえた。
 ユウゴの友人だったのだと知ったのは少し後のことだった。たしか四人、だったと思う。彼らの死を伝える冷酷な声は、明らかな意図を持ってユウゴの心を弄んでいた。命の価値を理解したのはそのときだったと思う。
 俺たちの命は紙切れ同然なんだって、言葉では分かっていた。散々看守に言われていたからだ。だから死を待つだけだった、ユウゴと出会う前までの俺なら、ユウゴに対する看守の言葉を聞いただけで簡単に心が折れていたに違いなかった。看守はああやって、あの手この手で俺たちを谷の底へと突き落とすのが得意だった。絶望と恐怖で、精神から俺たちを管理するためだろう。それでこっちが死んだってお構いなしだ。殉職ならミナトに大した痛手はない。俺たちの命は「軽い」から。
 けれど、その時俺が抱いたのは怒りだった。初任務で訪れたあの土地のことも、ユウゴの友人のことも、何一つ知らない俺だったけれど、喉が裂けるんじゃないかというほど大きな声で叫ぶユウゴを見て、看守がユウゴにどれだけ酷いことをしたのかを子どもながらに悟った。これがまだ、絶望への入り口でしかないことには気付けなかった。いくら超人的な力を手に入れても、俺たちはただの、無力で非力な子どもだったんだ。
 適合試験を受けてから初陣に赴くまで。訓練漬けの生活をしながら、ユウゴはよく自分が住んでいたサテライト拠点について話をしてくれた。
 小さな拠点だけど、とても暖かな場所だったこと。自称・防衛班としてサテライト拠点を守ろうと誓い合った四人の仲間がいること。それを語るユウゴの瞳は、暗い世界でとてもキラキラと輝いていた。
 でもあの日を境に、ユウゴはあのサテライト拠点での話をしなくなった。まるで記憶に蓋でもしてしまったみたいに、一切を語らなくなってしまった。俺もそれ以来、ユウゴにその話をすることが出来なくなっていた。一帯の情勢がガラリと変わっても、それは変わらなかった。
 その夜は、気が遠くなるほど長かった。小さかった体に残った疲れが、薄い瞼を重くさせる。その感覚はこれから何度も味わうことになるけれど、思い出せるのはその時のものだけだ。
 目を覚ました俺は、真っ先にユウゴを見た。
 煌めきが綺麗だった、その髪と同じ色の瞳はガラリと色を変えていた。激情に満ちた双眸はとても鋭利になっていた。少し、ほんの少しだけ怖いと思ったことはまだ言ってない。「おはよう」と小さな声で挨拶をすると、その鋭さは和らいだ。そしていつものユウゴの声で「おはよう」と返ってきたから、俺は安心したのだった。ユウゴに聞こえないように吐き出した、呼吸音のようなか細いため息の音も、すぐに思い出せる。
 些細なきっかけで思い出した過去は、刹那的に記憶の欠片を繋げた。どれもこれも、俺たちがこの瞬間に立つために必要なことだった。
 ――ユウゴの隣に立つ。その瞳を覗いてみたかった。俺たちの夢が現実味を帯びてきて、意志を灯す意味が薄れつつある今。ユウゴの瞳を染めていたあの激情がどこへ行ったのか、その行方が気になった。
 灰域の真ん中で、心地の良いそよ風が頬を撫でる。いびつな岩は微動だにしていなかった。この先にある防壁は、風化せずにまだ存在しているのかな。ユウゴも、同じことを考えていたりするんだろうか。
 俺の気配を察したのか、ユウゴがちらりと俺を見た。
「ルカ?」
 きょとんとした顔は、懐かしい面影を纏っていた。遠くを見つめる漆黒の瞳には、絶えず光が宿っている。俺の、希望でもあるその光は相変わらず綺麗だった。
 ユウゴが見ていた視線の先を見る。ユウゴも、もう一度そこを見た。確かな希望とわずかな寂しさが、その瞳をたゆたっていた。
「準備出来たよ」
「……そうか」
 帰投準備が出来たことを伝えると、ユウゴは悲しそうに微笑んだ。
「行こう、ユウゴ」
 ユウゴの記憶に背を向ける。少し遅れて、後ろからしっかりとした足音が聞こえてきた。
 風が、砂埃と一緒にユウゴの気持ちを壁の向こうまで届けてくれないだろうか。ついでで構わないから、俺の感謝も運んでくれないかな。
 俺は、そんなことを願っていた。

 
 

(20190430)