挨拶の準備なら出来てる

 
 

 轟が緑谷と暮らし始めてから、おおよそ一年が経った。一年も経てば、小さな食器棚も二人分の食器で溢れそうになっており、中には時々遊びにくる(という名目で宿の代わりにする)元クラスメイトたちのための食器まである始末だ。
 なんだかんだと繋がりを保ってくれている面々を思い浮かべながら、緑谷はその食器棚からいつものように二人分の食器を取り出した。今日は簡単な朝食を作るのだ。
 フライパンを用意して、まんべんなく伸ばしたサラダ油の上に卵を二つ割り落とした。あらかじめ用意しておいたベーコンを二枚、それぞれの黄身の上にのせる。せっかく二人とも休みなのだから、家事にかける時間はなるべく減らして、少しでも長く一緒の時間を過ごしたいと思っていた。その顔には少し笑顔が見える。これは緑谷の小さなわがままだった。
 家事に少し余裕が出来ると、昨夜の帰宅が自身より遅かった、轟の様子が気になった。キッチンから見える轟の部屋は、物音ひとつ鳴っていない。扉が開く気配も一向に見られなかった。
「あとで一回見に行こうかな」
 互いのどちらかが休みの時は、出勤前に声を掛ける。しかしどちらも休みの日はそれがない。疲れているだろうし、と寝ている轟をそっとしておいたら、昼過ぎに起きてきた彼に少し拗ねられたのが先日のことだ。
 いつも以上に寡黙になった轟に話を聞くと、どうやらせっかく二人揃っての休みだと言うのに、時間をムダにしてしまったことがショックだったらしい。緑谷自身も轟とは一緒に過ごせたら嬉しいと思っていたが、体が資本のヒーローが、睡眠不足で動けないなんてことになってはいけない。そう思っての判断だった。
 なら休日もいつものように声を掛けよう。それで相手が起きなければ、あとはそっとしておくこと。そんな簡単なルールを決めて、その日は家でゆっくりと過ごした。
 緑谷だって、朝が得意なわけじゃない。今日はたまたま、偶然、珍しく、早起きが出来ただけだった。だから轟がショックを受けた理由も少し分かる。緑谷は言わなかったが、轟だって緑谷のことを丸一日起こさなかった日があった。十五時を示すデジタル時計に絶望したのはまだ記憶に新しい。
 そうだ、と思いたって時計を見た。一日の予定を考えたり、火加減を眺めたりしてすっかり忘れていたのだ。そうやって見た時計は午前九時を回ったところだった。
 時間的にもちょうどいいか。
 出来た朝食をカチリと火を止める。
「あ、おはよう。よかった、今から起こしにいこうかって、」
「おはよう、お母さ――」
 言葉にしきってしまう前に、轟は自身のミスに気付いた。慌てて口を閉じた彼の目に寝起きの面影はなく、珍しく右に左にと泳いでいた。
 緑谷はぽかんと口を開いていた。一瞬なにが起きたのかわからなかったが、余熱でじゅうじゅうと控えめに焼かれ続ける朝食の音と、空かした窓から聞こえる鳥の鳴き声が場違いだということだけは分かった。穏やかな朝に、衝撃という雷が落ちたのだ。
「……間違えた」
「待って待って!」
 踵を返して部屋に引きこもろうとする轟を、今度は緑谷が慌てて引き留めた。
「ちょうど思い出したんだけどさ、今日、母の日でしょ! 実は何にも用意出来てなくて……!」
 ちょうど思い出した、は、さすがにムリがあった。緑谷は咄嗟のフォローが空振りしたことに気付いたが、すでに遅い。連日の仕事続きで何も用意出来ていなかったのは事実だが、轟が何か準備しているかもしれないということは完全に思考から抜け落ちていた。
「買い物、に、つきあってください……」
 最後まで言い切ると、今度は緑谷が部屋に引きこもりたくなった。立ってこちらを向いたまま動かない轟を通り過ぎなければいけないため、それは出来ないのだが。
「挨拶か」
「え!?」
「準備してくる」
「ちが、違う! 待って! 轟くん!」
 先程の羞恥心はどこへ行ったのか。眠気の醒めた顔つきで、ぼさぼさに乱れた頭を直そうと洗面台へ向かう轟を、緑谷は真っ赤な顔で追いかけた。
 彼に意図を見抜かれて、からかわれたのだと気付くまでそこから五分ほどかかったことが、少しの間轟の中で話題になることを緑谷はまだ知らない。

 
 

(20190512)