轟焦凍は踏み込みたい

 
 

 アラームのようにナースコールが鳴っている。遠くで鳴るそれは目覚ましの代わりにもなりはしないが、眠れない少年の意識を惹き付けることには長けていた。
 数度鳴ったそれが止まると、今度は小さな足音が廊下を歩いた。三人のベッドがある病室の前をそれが通り過ぎる。轟は、必要も無いのに息を潜めた。
 同室の二人は寝息を立てて眠っていた。カーテンで仕切られていてなにも見えないが、一定の間隔で繰り返されるそれは、起きているのは轟だけだと言っていた。
 あんな怪我をしたんだ、当然だろ。轟は二人の寝息を、息を潜めたまま静かに聞いていた。そうしているうちに、部屋を通り過ぎていった看護師の足音が戻ってきた。先程と同じように部屋の前を通り過ぎていき、同じくらいの回数でぱたりと止んだそれに、轟は胸をなで下ろす。二人の規則正しい呼吸音に、轟の深いため息が混じった。
 すっかり眠れなくなってしまった。明日だかあさってだかにはきっと退院するというのに、寝不足で体調不良だなんて笑い話にもならない。どうにかして眠れないかと、考えれば考えるほど暗闇の底へと落ちていくような感じがした。
 布団を口元まで被って体を軽く丸める。小さい頃もこうしていたような気がするし、していなかったような気もする。どちらにしろ、それは無意識的な行動だった。暗闇での足音がこんなに恐ろしいと思っているなんて、轟は知らなかった。自分のことなのに知らなかったのだ。
 それに気付けたのは、緑谷出久に自身の殻を壊されてからだった。破裂するまで押し込まれた鉛のような戦闘技術も、父を越えるために詰め込んだ膨大な知識も、全部自分自身のものではなかったのだと知った。それは「父親を越えるために動く人間」の中に入って体を動かしていた、幽霊のようなものだったのだ。轟がそれを受け入れると、その体がようやく自分の元へと帰ってきたような気がした。そこで、轟の世界は変わったのだ。
 その感覚というものは、思っていたよりもあっさりしたものだった。空気が変わったとか、色がついたとか。そういう感覚だと示すものばかり目にしていたから、きっとそんなものだろうと轟は勝手にそう思っていた。
 けれどそうではなかった。轟の世界変革はそんなものには収まらなかったのだ。
 空気は相変わらず焦げ臭いし、二種類の瞳が取り込む色彩は相変わらず修正可能なアンバランスさを保ったままだった。だから世界は変わってなんかいない。変化したのは自分の中身で、世界はいつもと同じ形をしたまま回っているのだと考えた。
 その後に決めることになった、ヒーロー名はショートにした。名前も体も全部受け入れようだとか、そんな高尚な考えではなかった。けれど心の隅の方には、わずかにそんな気持ちもあった。これが自分にぴったりだとは思わなかったが、これが間違っているとも思えなかった。だから名前はショートにした。
 自分が自分じゃなくなっていくようだ。でも、避けたいほど嫌な感覚ではなかった。
 そうなると轟は、緑谷のことが知りたくて仕方がなくなってしまった。仕舞い込んでいたことすら忘れていた、燃え尽きる寸前のような夢を引きずり出した緑谷のことが気になって仕方がなかったのだ。
 こんなにも他人のことを知りたいと思ったのは初めてだった。ずっと自分の影と、それを後押しする父親の影を相手取って生きてきた轟が初めて他者に抱いたものだった。
 轟は、オールマイトとの関係を疑ったときの焦った緑谷を思い出していた。
 結局、体育祭の戦いの前ははぐらかされたのだったか。それよりも前から、轟は緑谷とオールマイトの関係が気になっていたが、自分の考えを口にしたのはあれが初めてだった。緑谷が、オールマイトから目を掛けられるほどの何かを持っていることを、零せば僥倖、くらいには思っていたかもしれない。あの頃の自分が何を考えていたのか、すっかり分からなくなるほど轟の心境は変わっていた。まるで心をすげ替えられてしまったみたいだ。
 胸に手を当てて聞いてみる。答えてくれる自分自身はいなかった。でも、詮索しないと言った、あの時の言葉は真実だ。
 あの時は緑谷に興味もなかった。ただ轟が自分の人生を取り戻すために倒さなければならない相手としてしか見ていなかった。
 大げさな手振りが印象に残っている。緑谷は明らかに何かを隠していた。
 緑谷が持つものの正体がなんなのか、今更になって考えてしまうのは、大きな戦いが終わった安堵感からだろうか。轟にはさっぱりわからなかった。それでも、あの質問が緑谷の触れられたくない部分を刺激したことに違いはない。
 轟はそこへ踏み込みたかった。緑谷の心の、柔らかくて弱い部分まで全部暴いて見たかった。それがよくないことだとわかっているのに、そう考えてしまう思考を止められなかった。この病院が静かだからだと、環境のせいにしてみても仄暗いそれは止まらない。夜だからおかしなことを考えてしまうんだと言い聞かせても、きっと朝になっても同じことを言っているだろう。そんなことになったら、何でも知ってる飯田にでも相談してみようか。轟はそんなことを考えていた。そしてあわよくば、自身が抱くこの感情の名前が知りたいと思っていたのだった。
 つまるところ轟は、突然あふれ出した感情を持て余していたのだ。カーテン一枚隔てた向こう側に、件の緑谷がいる。轟がこんなにも考え込んでいることを知らない緑谷が、隣のベッドで眠っていることが余計に睡魔を追い払う。考えすぎて心臓がいつもより早く鼓動していた。心だけじゃなくて、心臓までまるごと取り替えられてしまったみたいに、それは轟の言うことを聞かない。
「寝れねぇ……」
 ぼやいた言葉は被った布団に吸い込まれて、二つの呼吸音には届かなかった。

 
 

(20190528)