ボーダーライン

 

 好いた人間はいないのか、とはクロムの言葉であった。好き放題あたりを攻撃していた、夏の日差しがようやく落ち着き始めた頃のことだ。お互いの感覚交差を遮断することにも慣れ、クロムの姿も少しばかり変わり、静かに世を蹂躙しているミラージュ事件の裾にかろうじて爪を引っ掛けることが出来た、そんな複雑な時分でもあった。
「それって、恋愛的な意味?」
ピッと音を鳴らしたエアコンが口を開く。出てくる風はまだ冷たいが、日が暮れるまでには温まるだろう。冷えるようになってきた夜までに部屋が温もるならいいので、樹は特に気にしていなかった。
テーブルにリモコンを置きながら樹は言った。カーディガンのボタンを見つめて外しながら、真剣すぎることも適当すぎることもない絶妙なトーンで聞き返す。
樹がクロムに言葉の真意を聞き返すことは少なくなかった。どこかの世界のどこかの人間だったはずのクロムと、地球の日本に住む、剣にも魔法にも馴染みがない樹との間にある差は、ふとした時に認識の差を生み出す。そのことを、二人は良く理解していた。相互理解のための説明を怠らない、というのはクロムと樹が同体の関係になった初期から重んじられてきたことだ。
「レンアイがなにかは分からんが、傍にいると心が安らぎ、共に戦えば勇気が湧き、一生をかけて守りたいと思える女性のことだ」
「そこまで考えたことはないけど、それは多分恋愛ってことであってると思う」
だから、クロムも臆せずに答える。立場が逆転し、質問する側になった樹だってそうしたであろう、ごく自然な抑揚でクロムは返した。
樹も樹で、わざわざ手を止めてまでクロムの話を聞きはしない。脱いだカーディガンをハンガーに掛けて、無香料の消臭スプレーを二回だけ全体に吹き付けて、夕食の準備のために冷蔵庫へ向かって歩く。その道すがらに樹も答えた。
クロムはそれを不誠実だとは咎めない。二人にとって、これは日常生活の一部にすぎないのだ。じっくり向き合って言葉を選んだり、気を遣ったりしながら話し合うことも、互いの信頼が築かれるにつれて随分と少なくなっていった。そういう経緯もあり、初めは顔を突き合わせて話すような慎重さが必要だった相互理解も、かなり簡略化された。それ自体は、好意的に受け止めてもいいはずだ。二人はそう考えていた。
「そうか。なら恋愛だ」
「そっかあ、恋愛かぁ」
冷蔵庫の扉を開け、上から視線を順に落としながら樹はいくつかのタッパーを取り出した。「今日は何も作らないのか」「残りものがたまってきてるからさ」そんな会話を間に挟むのも慣れたものだ。
そうか、と呟かれた声は先程と違い残念そうだった。樹が料理をするときに生まれる微量のパフォーマは少し変わった味をしているのだ。口には出さないし本人にも隠しているが、クロムはそれが好きだった。おやつを食べる感覚に近い、と仲間の誰かの言葉を思い出す。
電子レンジが料理を温めている間に、樹は本題について考えた。恋愛的な意味で好きな人。つまり恋人にしたい人、ということで間違いないだろう。なぜクロムが突然そんなことを話題にしたのか、その疑問は残るが質問に質問で返すのもはばかられる。樹はクロムの言った恋愛観をひとつずつ思い出しながら、ひとまず様々な人を思い浮かべることにした。
レンジのカウントダウンが残り十秒に差し掛かった頃。レンジの中で回る小皿を目で追いながら樹は口を開いた。
「とりあえず、いないかな」
「とりあえず」
「そう、とりあえず」
「今はいないということか?」
「うぅん……? たぶん?」
「たぶん」
「うん、たぶん」
曖昧な答えを残して、レンジはリミットを告げた。クロムはそれきり話さなくなってしまったが、樹は一旦夕食の準備を終えてしまうことにした。温め終わった他の皿をリビングのテーブルに持っていき、箸とお茶を準備して、ついでにスマホを確認する。今日は特になんの連絡もなかったので、最後に温めた小皿がほどよく冷めるのを待ってリビングに持っていった。
「……イツキ? 食べないのか?」
イスに座っても中々食べ始めない樹を不思議に思ったクロムが声をかけた。
「あのさクロム」
日常生活からほんの少しだけ外れた、真剣な声色で樹はクロムに話しかけた。
「さっきの話だけど。好きな人とか、突然聞かれても答えられないよ。あと、クロムの言う恋愛に当てはまる女の子はやっぱり今のところいないと思う」
守りたいっていうのが、よく分からなくて。料理の並んだテーブルをぼんやりと見つめて樹は言った。冷めてしまっては美味しくないぞと言えるような雰囲気ではないことくらいは、クロムにも分かった。
「……大切な人を失ってしまう想像したことはないか」
「大切な人なら……いや、それでもそこまで考えたことはないや。クロムはよく考えたりしてたのか?」
「自然と思い浮かんだくらいだ。おそらく、していたのだろう。戦場に身を置いていた記憶はある。それに比べて、イツキたちの暮らしは平和そのものだ。考えたことがないのもムリはない」
持ち得る限りの言葉を尽くして、クロムは樹の質問に丁寧に答えた。クロムが何気なく投げかけた質問に対して、樹が答えを出し切れていないことにクロムは気づいていた。丁寧な返答は、樹を惑わせてしまったことへの罪悪感も含まれている。
いる、いない、どちらとも言えない答えを樹が持っていることは明らかだった。樹がいないと言っているのに、なぜ別のものが樹の中に残っているのか知りたい。そんな気持ちもクロムにはあった。クロムに隠せないということは、樹自身が自分の中の答えを見失っているということでもある。知らないものは隠せない。当たり前だがそういうことだ。そしてそれを、樹の成長のためにいつも誘導してきたが今回ばかりはその誘導が正しいのか、クロムは判断しかねていた。なんといっても事の始まりは、自身がなんとなくで聞いてしまった質問のせいなのだ。
「クロムは、いたの? 大切な人」
無い心臓が飛び出してしまいそうだった。ほかでもない樹にそれを聞かれることに、怯えていたというのだろうか。
「どうだろうか。思い出せていないか、あるいはいなかったか。少なくとも、特定のだれかを思い浮かべるには至らないな」
そっか、と樹が呟く。その声は安堵感に満ちていて、クロムも同じように安堵した。
「それって、女の人だけしか選べないのかな」
「む……そんなことはないと思うが……」
「好きとか、恋愛とか、そういうじゃないけど。大切な人なら、俺にはもういるんだ」
「そうなのか!」
嬉しいような、寂しいような。親離れしていく子供を見ているような感覚だ。昔に一度、樹に父性を指摘され、その時は否定したがもう否定は出来ないかもしれないとクロムは思った。だって、樹の大切な人が誰なのか聞きたくて仕方がない気持ちを否定できないのだ。
「あの、クロムさん」
「なんだ?」
「聞きたいって気持ちがすごく伝わってくるんだけど」
「ああ。聞きたいと思っているからな」
「……俺が女の子じゃなかったことに感謝してほしいよ」
「聞かない方がいいことくらいは分かっているつもりだ」
「じゃあこのあからさまな『聞きたい』も抑えてくれ」
それは出来ないなとクロムは思った。その瞬間に、すべてが繋がった。どうして自分があんな質問をしてしまったのか。罪悪感すら抱いたのはなぜなのか。樹がクロムに対して今抱いている疑問への最適な答えとなる言葉が、今、一切引っかかることなく落ちてきた。
「イツキのことは何でも知りたい」
「な……!?」
「これまで、共に戦い、共に過ごし、言葉を交わして心も交わしてきた。ミラージュ事件も核心に迫りつつある。イツキたちなら、きっと解決にまでたどり着けるだろう。そうなった時、自分自身がどうなるかは分からん。だからそれまでに、イツキのことを少しでも多く知りたいと思うのだ」
美しい球体のようなその言葉は、やはり何にも妨げられることなく樹に届けられた。ようやくだ。ようやく思いが言葉になった。クロムはその喜びに打ち震えた。これが喜びと言わずして何だと言う。そんな自信すらあった。
樹は驚いた顔のまま、しばらく口も開いたままだった。まばたきだけを何度か繰り返して、タイミングよく鳴ったスマホの通知音でやっと体が動いた。クロムにあそこまで言われては、さすがに答えないわけにもいかない。そう考えているのがひしひしと伝わってくる。隠す余裕もないようだった。これでもかというほどに忙しく駆け回る樹の視線に振り回されながら、クロムは樹の唸り声を聞いていた。
「……クロムだよ」
樹がぼそりと呟いたのは、唸り声が止んでから五秒後のことだった。
「俺はクロムに守ってもらってる方だし、クロムは女の人じゃないし、そもそも恋愛的な意味だっていうから当てはまらないなって思ってたんだけど。でもクロムがいると落ち着くし、戦う時はいつもクロムに勇気をもらってるよ。俺はやっぱり、クロムがいないと戦えないから」
声はどんどん大きくなって、いつもの樹に戻っていった。
「ツバサやトウマや、フォルトナのみんなのことはもちろん大切だと思ってる。でもこうやって話をしてくれるクロムがいるから、俺はここまで戦ってこれたんだ。だから」
樹はそこで息継ぎをした。恥ずかしさからだろうか。なんとかして日常会話に戻そうとしているようだった。置いたきりだった箸を握ったのも、おそらく日常の一部を取り戻したいからだ。そしてこんなにも心が乱されるのは、覆ることない答えを樹自身が自覚してしまったからだった。
「クロムがいなくなるなんて、考えたくないかな」
落ち着いた真っ直ぐな声は、よく聞けばわずかに震えていた。樹はそれだけ言い切ると、持っていた箸でゆっくりと食事をし始めた。それに悲しみが宿っていて、クロムはどう受け止めるか悩んだ。だが、もうこれ以上なにも聞けそうにない。
冷めきった夕食を温めなおす思考も、提案も、二人の中からはじき出されてしまっていた。日常には、もう戻れそうにない。

 

(20200917)