二人で旅をすることになるなんて、考えたこともなかった。
残された最後のソロモンの指輪を、世界の果てに埋めに行く旅。俺とソロモンの、二人だけの旅だ。
ヴィータたちは、その時点で最も強い力を持つ存在を恐れる。ハルマゲドンが阻止され、メギドラルやハルマニアとヴァイガルドが分断された今、その存在はソロモン王とその配下のメギドたちだ。あれだけ派手に活躍したのだから、その力をヴィータたちが認識していないわけがなかった。だからソロモンは、メギドがメギドの力を扱うことを全員に知らせた直後に言ったのだ。「この指輪は捨ててくる」と。
「勝手なこと言ってるのは分かってる。でも、この指輪が必要ないくらい平和な世界なん だってことを伝えるには、これが一番良いかなって」
その場の誰もが驚いた。反対する者だっていた。けれどソロモンに「わがまま言ってごめん」なんて言われてそれでも反対するメギドは、そこにはいなかった。個を犠牲にしてきたソロモンのわがままを、個を重んじるメギドたちが否定出来るわけがない。俺たちの旅が始まったのは、そこからだ。
「ここに埋めるよ」
ソロモンが指したのは、樹海を構成する木々の根のうちの一つだった。
「本当にいいのかい」
「いいんだ。これを使うことは、もう無いから」
ソロモンは、迷いなく地面を掘った。根を傷つけないように少しずつ土が削られる。音が、まるで終わりをカウントしているようだった。俺は、地面にしゃがみ込むソロモンの背中をじっと見つめていた。ずいぶんと大きくなった背中が、土遊びをする子どものように土を掘っている。彼の幼少を想像して、クスリと笑ってしまった時の息が漏れていたようで、ソロモンが一瞬こちらを向いたので「なんでもないよ」と続きを促した。
ハルマゲドンの阻止を以て、三つの世界を繋いでいたゲートは、自然発生や人工物に関わらず全て崩壊した。以降、空間に乱れが起きているのか今までの技術でゲートを作ることは出来ず、原因もまだ解明されていないという。
メギドはメギドラルへ。ハルマはハルマニアへ。ゲートが崩壊する直前、彼らはそれぞれの世界へと帰って行った。強制的に送還されたといってもいい。もちろん、幻獣やその他の兵器も例外ではない。世界はあるべき姿へ戻ったのだとも言えるだろう。だが、それは魂がどの世界に寄り添っているかが影響しているらしい。
追放メギドたちは、例外なくヴァイガルドに残った。俺もその内の一人だ。
指輪の契約を受けていた純正メギドたちは半数より少し多いくらいの人数がメギドラルへと送還されていた。しかしそれも、どうやら強制というわけではないようで、抗うことが出来たようだ。ヴァイガルドに残った純正メギドたちは、全員それに流されなかった者たちだと後に聞いた。
今のところ、それぞれの世界を行き来する方法はない。ゲートが自然発生すれば可能にはなるのだけれど、それを、今のヴァイガルドは必要としていない。メギドラルに戻った純正メギドたちに会えなくなるのは少し寂しいと言うソロモンだったが、向こうに送る方法が無い限り、彼らを召喚するようなことはしないだろう。ゲートの発生、もしくは技術の発達を待つには、ソロモンに残されたヴィータとしての時間は短すぎる。つまり、実質的には永遠の別れだと言っても過言ではなかった。
けれど、ソロモンは笑っていた。
「会えないって決まってるわけじゃないしさ。最初に俺がブネたちに出会ったのと同じで、また奇跡が起きるかもしれないだろ」
その笑顔を見て「強くなったなあ」と思わず感慨に耽ってしまう。子どもの成長を見守ってきた父親みたいな気分だった。
「それに、みんなのことは俺がちゃんと全部覚えているから。どこにいても、みんな俺たちの仲間だよ」
なにを思ったのか、そう言いながら俺のことをじっと見つめて、満面の、というよりは少しいたずらっぽく微笑んだソロモンのことが、何故か印象に残っている。出会ったころより体も成長したからかな、と瞬きをしてみたが何も変わらなかった。「いい男になったじゃないか」と伝えたときの照れた様子は、相変わらずだったから少し安心した。
それとは裏腹に、変わらなかったこと、変わらないことも確かに存在する。
世界が正しきを取り戻したとはいえ、それまでの積み重ねが消えることはなかった。分かりやすいのは不死者たちだ。数百年以上を生きている彼らは、本来ならはヴィータの理から外れた存在だが、理が正されても体には何の影響も出ていないという。そういう俺も、本当ならこの旅を途中で離脱していたはずなのだけれど、体はまだピンピンしている。
これからこの体がどうなるかはわからない。歳を取るとともに見た目も老いていくのかもしれないし、ある日突然、理の影響を受けるのかもしれない。そんな説明がソロモンからされたとき、人一倍期待のこもった目をしていたのはバエルだった。彼がここから、普通のヴィータのように成長していけるなら、コランとしてプランシィとずっと一緒に生きていけるはずだ。いつか旅の途中で聞いた、彼の今までの人生を思うと、普通に成長して老いることが出来るのは、彼にとってこれ以上なく嬉しいことなのだと思った。
次にソロモンが言ったのは、俺たちのメギドとしての力のことだった。結論から言えば、フォトンがあれば今までと変わらずに使うことが出来るのだという。実演したモラクスがソロモンの隣で、興奮した様子で飛び跳ねていた。
あの日が「ハルマゲドン阻止を目的とする」ソロモン王としての、彼の最後の役目だったのかもしれない。
彼のことを「ソロモン」と呼ぶのも、そろそろ改めるべきだろうか。最近メギドたちがその話題で持ちきりだったことを思い出す。ソロモン自身は、今まで通り「ソロモン」で構わないと言っているので、余計にその話が長引くのだとも誰かが言っていたか。意味も無くソロモンを見つめながら俺はどうしようかと思案したが、その場では結論に至らなかった。
やがて、音が止んだ。
次いで、森に似合わない金属の音がガチャガチャと響く。それに反応したのは、鳥と近くにいた小動物くらいだった。
「お待たせ、バルバトス」
「終わったんだね」
「終わったよ。これで、全部終わったんだ」
ソロモンの差し出した左手が、あまりにもシンプルで驚いた。
「やっぱり、バルバトスにも変な感じなんだな」
手を握ったり広げたりしながら、ソロモンは苦笑いをしていた。
「まあ、指輪をした手しか見たことがないからね」
「俺も変な感じだよ。何年もつけてたからかな。なんか、落ち着かなくて」
「心配しなくても、そのうち嫌でも慣れるさ」
「笑うなよ。他人事だと思って。さっきも笑ってただろ」
「ああ、あれはね。ソロモンも大きくなったなぁと思ってただけさ」
「なんだよそれ」
「そうだ。いっそ俺が父親に、」
むくれたソロモンをもう少しからかおうとしたところで、ソロモンがキスで俺の言葉を遮った。すぐに離れた唇をつい追いかけてしまった俺の視線は、それをしたり顔で見ていたソロモンの瞳とかち合った。
「バルバトスは、父親じゃなくて恋人だろ」
「……悪かった。謝るから許してくれ」
「バルバトスからもキスしてくれたら、許すよ」
「しょうがないな」
「思ってないだろ?」
「……育て方を間違えたみたいだ」
「だから俺はバルバトスの子どもじゃないって!」
鬱蒼とした森に、俺たちの軽快な笑い声が響く。目的を果たした俺たちの旅は、ここで折り返しだ。
ひとまず野営の準備をして、体を休めることにした。用意をこなすソロモンは、出会った時とは見違えるほど手際が良い。
こんなに昔を思い出してしまう理由を、俺はあまり考えたくないと思っている。
分かるんだ。自分自身が、ソロモンとの二人旅を終わらせたくないと思っていることが嫌になるくらいに分かる。あの日教えた火の起こし方そのままをずっと続けているソロモンを見て、なおさら強くそう感じた。
「上手くなったね」
「これくらい出来るようにならないとって思ってたからさ、必死だったよ」
本当に、ソロモンはよく笑うようになった。勝利を確信したときの、先導者としての笑みではない。子どもに戻れないと思っていた彼が、子どものように笑えていることは、俺にとっては素直に嬉しい。
だからこそ、彼には俺がふさわしくないと痛感するのだ。せっかく年相応の生活を許された彼から伴侶を選ぶ権利を奪ってしまうのは、きっと、良くないことだ。
俺の存在は、彼にとって毒になるのではないか。それは、俺の本意ではない。
「バルバトス、バルバトス」
「あ……すまない、何か用かな」
「また、一人で考え込んでるだろ」
「なっ……どうして、そう考えたんだ?」
「バルバトスってさ、考えごとするときに少し目が細くなるよな」
「まさか……それで判断してるのかい」
「気付いてなかったのか?」
「目はさすがに、ね」
「バルバトスの知らないことを俺が知ってるの、ちょっと嬉しい」
悩みごとなら、いつでも聞くよ。
にこにこと緩んだ顔でそう言ったきり、ソロモンは担当していた食事の準備に戻っていった。呆気に取られた俺は、手の止まっていた作業を再開する。なんだか、ソロモンに上手く気を逸らされたような気がする。
あまり先延ばしにはしたくない。だが、この旅が終わるまでは、結論なんてださなくてもいいと言うズルい自分がいる。俺は、そんな俺の存在を否定出来なかった。俺が、彼のことを愛しているからだ。こればかりは、理性ではどうにもならない。
(愛とは、本当にやっかいなものだな……)
無心で手を動かすと、案外時間はあっという間に過ぎていった。森の中にいても分かるくらい、周囲がすっかり暗くなるまでたわいない会話を繰り返す。
ソロモンが起こした火を囲んで、森に入る前にここから一番近い村で買った旅人向けの携帯食を温めた。
幻獣がいなくなってから、娯楽として旅をするヴィータが増えたそうだ。その影響なのか、保存の利く食料の需要が高まっているらしく、俺たちが旅をしていた頃よりも充実している。特に人気なのは肉を使ったもので、干し肉は飛ぶように売れていると耳にしたことがある。それもそうだろう。普段の生活ならともかく、旅の最中に肉を食べることが出来るなんて、畜産業の衰退していた少し前じゃ考えられない。
塩辛さが舌を刺激する干し肉を噛みちぎる。前まで売られていた塩だけのものと違って、ハーブがきいていてかなりおいしかった。何十年と旅をしてきたが、こんなにおいしい干し肉を、俺は口にした記憶がない。ヴァイガルドの文明が急速に発展していることを実感して、俺たちが成し遂げた事の大きさを知る。
ソロモンも、おいしくなった干し肉に目を輝かせていた。
あっという間に自分の分を平らげて、俺が食べるのを見つめ始める。少し食べにくい。
「俺はさ」
落ち着かない気分で食事をしていると、ソロモンは唐突にそう切り出した。
「グロル村でのこと、一瞬でも忘れたことはないんだ」
「……突然、どうしたんだい」
「いや、こうやってバルバトスと二人で火を囲んでるとさ、前にもこんなことがあったなって思って。あの時起きてたのがバルバトスで良かったって、俺、ずっと思ってたんだ」
覚えてないか、というソロモンに「覚えているさ」と微笑む。
「懐かしいね、一人は嫌だって泣いてたっけ」
「う……俺も混乱してたんだよ……。こんなことになる前に、戻りたいって」
でも、もう戻りたいなんて思わないよ。
ソロモンの穏やかな声が、森の空気を震わせる。
「いま村に住んでいる人たちに許可をもらってさ、王都にある碑の小さいものを作らせてもらったんだ。グロル村のことは忘れないけど、それじゃあ前には進めないだろ」
少し眉の下がった、彼のこういう表情が好きだなあと、溢れそうな感情を水と一緒に飲み下した。 本当に、彼は強くなった。人としても申し分ないくらいに。それが、ますます俺を隣に立たせてくれなくなる。いや、そう思うのは自分自身の弱さが問題だろう。俺は、これから輝かしい人生を送るであろうソロモンに、ふさわしいと思える自信がない。
「ソロモン、キミは……どうしてこの旅に俺を選んだんだい」
俺から質問が飛んでくるとは思っていなかったのか、ソロモンは目をぱちぱちと瞬かせて、えっと、と言葉を選び始めた。俺は、その言葉に驚くこととなる。
「バルバトスと、二人きりでゆっくり話がしたかったんだ。あのまま何もなかったら、バルバトスは何も言わずにふらっといなくなりそうだったからさ……」
「そんな……ことを……」
「考えてたよ。俺は、ずっと考えてた。バルバトスに、ずっと俺の隣にいてもらうにはどうしたらいいかなって、ずっと考えてたんだ」
ソロモンが、俺の両手を掬い上げる。今回の旅に俺以外を同行させなかったのは、この話がしたかったからだとソロモンは言った。どうりで珍しく、ソロモンが強情だと思ったんだ。彼の旅についていきたいという者たちの申し出を全て断った時点で、ソロモンのこの計画は始まっていたのだと知った。
いつになく真剣な眼差しから、逃れたくなった。目が泳いで、息を呑む。少し煙の味がする。逃げられないし、逃げるつもりはない。なのに、弱い俺は逃げたくなる。
「いつ伝えようかと思って……ほらバルバトスってさ、なんていうか……自由だろ。だから俺が、自分の勝手でバルバトスの自由を奪っても、いいのかな、って……」
「そんなの、いいに決まって、」
伏し目がちになるソロモンに向かって、なんとか声を届けた。そんな、泣きそうな顔をしないでくれよ。
「なあ、バルバトス」
黄色のとばりが俺たちを包む。吸い込んだ息のせいで、胸が詰まった。
「話し相手に、なってくれないかな。出来れば、これからもずっと」
俺は、泣いてしまいそうになるのを堪えて、なんとか笑顔を作って頷いた。
「もちろんさ」
これ以外に彼に返せる言葉は、俺の中からいなくなっていた。
(20200311)