寝台列車 - 1/7

 
 

【1】

 数年前、記憶を失った俺は世界にひとり、放り出されていた。行きかう人々の誰もが俺を見たが、どれも知らない顔の人間ばかりだった。話しかけてくるヤツなんてもちろんいない。そんな俺に唯一声を掛けてくれたのが、今お世話になっている夫婦だった。
 心優しいその夫婦は、俺の素性を力の限り調べてくれたみたいだったが、それももう、始めて五年が経つ。端的に言うと、成果は得られなかった。
 拾われて一年が経つ前に、戸籍がないと不便だろうということで、俺は二人の夫婦の子として人権を手に入れた。結婚して十数年。子どもはいないと言う夫婦の、初めての子になるのが自分だなんて、と申し訳なく思ったのだ。
 二年が経つ頃には、生活にもずいぶん慣れていた。物の使い方を忘れていたわけではなかったのが救いだったのだろう。推定の年齢ではあったが、夫婦が誕生日の祝いをしてくれるようになったのもこの年だった。高校にも通わせてもらって、友人も少し出来た。人間として、生き返ったような気分だった。
 三年が経つよりも早く、俺はアルバイトを始めた。拾ってくれた夫婦に、少しでも恩返しがしたかったんだ。社会勉強にもなったから、俺はアルバイトをしてよかったと思った。
 この生活が四年目になると、記憶がないことはあまり意識しなくなっていた。ふとした時に考えてしまうこと以外、俺は普通の人のように過ごしていた。
 この頃になると幸せな夢を見れるという寝台列車のウワサがクラスでも広まって、いつか金を貯めたら乗ってみてえなとかいう話をしたっけな。
 そして今は、大学にまで通わせてもらっている。ご夫婦がオレ記憶の手がかりすら得られていないと、とても深々と頭を下げられてからまだ三日も経っていない。
「どんな人間だったかもわからない俺を拾ってくれて、五年も本当の子どもみたいに育ててくれただけで、俺はもう、感謝してもしきれないくらいですから」
 俺が落ち着いた声でそう言うと、奥さんも同じような声で「そう、ね」と言った。
「五年間、なんにも見つけられなくてごめんなさい。今まで何度お互いに謝り合ったのか、もう覚えていないわね」
 苦しそうに笑む奥さんに、俺も心を締め付けられる思いだった。俺が夫婦に拾われてからのこの五年間、彼らにそんな顔をさせてしまうことが、俺の唯一の悩みでもあったのだ。
「それももう、今日で終わりにしましょうか」
 その言葉を口にした瞬間に、奥さんは苦痛から解放されたのだろう。いや、自らの力で解放したようだった。俺は日付を確認する。忘れたことはなかったが、年を経るにつれて記憶の隅に追いやっていたものを思い出した。今日は、俺が町で夫婦に声を掛けられた日だった。
「うちの子に、なってもらえるかしら?」
 一拍おいて、俺は力強く頷いた。俺たちは、今日から家族になる。戸籍だけの間柄ではない、不定形なものになるのだ。
 俺の意志を見て、奥さんは安心したのか緊張を緩ませた。しかし、それもすぐに曇らせる。どうして、と俺が思う前に、目の前に何かが差し出された。自然に、視線はそちらに向かっていく。
「――これを、あなたに渡しておくわ」
 手渡されたのは、一冊の本だった。
 自室に戻った俺は、そのままベッドに軽く身を投げ出した。両腕を大きく広げて、持っていた本から手を離す。それほど重くもないボロボロの本が、掛布団に軽く沈んだ。
 この本は、俺が記憶をなくしてさまよっていた時に持っていた、たったひとつの所持品だという。これを俺に渡すことを、今日のあの時まで決めかねていたが、やはり渡しておかなければと思いなおしたそうだ。ちなみにこの本についてもやはり調査を依頼してくれていたそうだが、大した情報は得られなかったと聞いた。
 俺からこの本を遠ざけていたのには、理由があるらしい。これを読むのなら、覚悟を決めてほしいと念押しされるほどの何かが、この本にはあると俺は推測した。
 何があっても構わない。俺は自分の持てる限りの覚悟と、勇気と、半ば諦めていた記憶の復活への期待をごちゃ混ぜに持って、再び本を手に取った。
 著者が誰なのか、どんなタイトルが添えられていたのかもわからないくらいに、その表紙はすり減っていた。一体何のために、自分はこの本と一緒に町で人混みにいたのだろうか。それを想像するには情報が足りない。
 中身も確認しておこうと、俺はすっかり黄ばんでしまっている本を丁寧に開いた。紙と紙がくっついてしまっている箇所を、破ってしまわないように慎重に剥がす。
 ゆっくりと、たどるように、かすれた文字を追った。
 それは一人の青年がたどった人生を記した本のようだった。親のいない幼少期を過ごしたその青年が、自分の生い立ちからくる周囲との違いに苦しみながら、普通の人間のように生きようとする話だった。
 生きるために仕事に明け暮れた彼に初めてできた、親友ともいえる友人に出会って――。
「……ない」
 そこから先のページは破れていた。もうすぐ結末を迎えたのだろうに、というほどに少ないページの破れ目が、束になって本の中心に生えている。
 ああこれは確かに、なんの手掛かりにもならないな。
 俺は冷めた気持ちでその破れ目を見つめていた。
 すっきりとしない後味のまま、俺は本を閉じようとした。その時、最後のページが表紙にのりづけされていることに気づいた。四辺全てが張り付けられているが、空気が入っているのか中心が少しだけ膨らんでいる。
「……たしか、カッターがあったよな」
 もうどうせ使い道などない本だろうし。そんな好奇心で、俺はこの故意に封じられたページを剥がすことにした。劣化の激しい本を割いてしまわないように、薄く、ゆっくりと刃をすべらせる。刃物が繊維を断ち切る音が静かな室内に響いた。
「――っし、うまく出来た」
 カッターの刃を収め、机に置いた。無意識に止まっていた呼吸が再開される。俺は今、とても緊張した面持ちをしているに違いない。
 接着部分が全て解かれて、黄色くなった紙が浮いた。ここになにがあるのだろうか。そんな気持ちで、俺は紙の端をじっとりとした指でつまんだ。
 首を伝った汗が服に吸収されていった。内側から叩かれるように心臓が鳴っている。俺は意を決してついに紙切れをめくった。

『めをさまして』

 赤黒いインクで、荒々しくなすりつけるように書かれていたその文字に、俺は慄いた。目でそれを追うと同時に、男のような女のような、子どもでもなければ老人でもない声が、頭の中でそれを読み始める。
「ひっ……!」
 俺は思わず本から手を離した。ばさりとフローリングに落ちたそれから、距離をとる。ページ部分を下にしてそいつは床に広がった。破れたかもしれないなんて考えは浮かばなかった。
 聞こえた声も、見てしまった文字も、なにもかも気味が悪い。禍々しいなに(・・)か(・)が、そこに潜んでいる気配がした。声はあの一度だけ聞こえたきりだ。俺はおそるおそる本に近寄って、割れたガラスの破片をつまむように本に触れた。
(何も、聞こえない)
 声だったのかもわからない。書きなぐられた字を見ても、それはもう聞こえなかった。赤黒いその字だけが依然としてそこに鎮座している。
「なにかあったの?」
「あ、いえ……虫が入ってきたので驚いてしまって」
 俺の悲鳴を聞きつけたのか、勢いよくドアが開いて奥さんが部屋に入ってきた。俺はとっさに嘘を吐いた。
「あの、この本なんですけど。元々ページは破れていたんでしょうか」
「ええ、あなたに出会ったその日に見させてもらったけれど、その時にはすでにページは破られていたわ」
「声が、聞こえたりとかは……」
「声?」
 怪訝な顔をした彼女をみて、俺はすぐに「なんでもないです」と苦笑いを返して誤魔化した。
「なにかあったのなら、私たちが預かっておきましょうか?」
「いえ。俺が持っていたのなら、なにか思い出すかもしれませんし……自分の部屋に置いておきます」
 これ以上夫婦に心配はかけられない、と俺は提案を断った。奥さんが部屋を出ていってから、俺はその本を、押し入れの隅に追いやるように奥へと仕舞った。