【2】
白い息が空気に混じり、鼻の頭も赤くなる。あの気味の悪い本のことが、俺の記憶から薄れかけてきたころだった。
ある日突然、俺のことを知っているという人物がやってきたのだ。バイトが終わって、帰ろうかと駅に向かって少し歩いた時だった。
中性的な顔立ちをしたそいつは、まだ高校生なんじゃないかというあどけなさを残しながら、成人を迎えている大人のような、どこか達観した雰囲気をあわせ持っていた。捉えどころのないオーラと、それに似合わないブレザーをまとった姿に、違和感を覚える。
「カミュ……! こんなところにいたんだね」
一体どこから現れたのか。コツコツとそいつの履いている靴が音を鳴らす。時間でも操っているのかというくらいに、あっという間にそいつは俺の前に来た。
「かみゅって、俺のことですか? あなたは俺のこと、何か知ってるんですか」
「そうだよ。もしかして、覚えてない?」
「知り合いの方だったならすみません。俺、五年より前の記憶がないんです」
「そう……」
そいつは残念そうに目を伏せた。
「本当は全部説明するべきなんだろうけど、でも、ごめん……今は出来ない。話すことで記憶が戻るわけじゃないし、とにかく時間がないんだ」
今は出来ない。その意味が分からなかった。そいつはなんだか焦っているような話し方で、こっちまでそんな気分にさせられる。
「ねえカミュ。ここから逃げよう?」
「逃げる、って、」
「ここから逃げるんだよカミュ。そうすれば、君の記憶は戻る。こんな悪夢ともさよならだ。……僕を信じて」
必死の形相でそいつは俺の両腕にしがみついてきた。俺はそれを振り払わなかった。なぜか、それをしてはいけない気がしたのだ。
「いきなり現れたやつに信じろって言われて、信じられるわけない、だろ」
「ご、ごめん……でもお願い、おねがいだから僕を信じて」
思わず敬語も忘れてしまうほど驚いた。ごめんとお願いを繰り返して縋りつくそいつを、ムリだと一蹴しようとしてやはり思いとどまる。俺じゃないだれかが、俺の体を動かしているようだった。
そうこうしているうちに、振り払えなかったそいつの腕が、あっさりと離れていく。
「ここの最寄りの駅で、待ってる。夜明けまでには必ず来てほしい」
そいつはくるりと踵を返して、夕暮れの町並みに消えていった。あの青年が指定した最寄り駅は、ここから五分とかからない。自宅からでも、そう遠くはない。
街灯に虫が吸い寄せられている音を耳に取り込みながら夜道を歩いて、あいつが言い残していった言葉を思い出す。待ってる、なんてあいつが勝手に言ってるだけなんだから、無視してしまえばいいのだ。なのに、最後に見えたあいつの潤んだ目がちらつく。泣きたいのはこっちの方だ。でもその涙をみると、引き留める声すらかけられないほどに、どうしてか何も言えなくなってしまったのだ。
家に着くと奥さんが、晩ごはんの支度が出来ていることを教えてくれた。夕食の間だけはあのことを思考から追いやることが出来たが、風呂と歯磨きを済ませて部屋に戻り、ベッドに倒れこむとまたあいつのセリフが浮かんできた。
従わずに、そのまま勝手に待たせておけばいい。いくら失くした記憶が知りたいからって、初対面のわけがわからない人間に着いていくなんて愚の骨頂だ。寝てしまおうと、幾度も瞼を下ろした。
果たして本当に正しい選択なのだろうか。
もうすぐ、夜が明ける。けれども、今から走って指定された駅に向かうなら、ギリギリ間に合う時間だ。俺は今、違えてはいけない選択を迫られているのだということだけは、はっきりと理解していた。
弾かれるように俺はベッドから起き上がった。愛用しているいつものリュックを掴み、財布を突っ込んだ。免許証やスマホは、机の引き出しの奥にしまい込む。もうこの引き出しを開ける日は来ないだろう。
身分証の入っていない財布と、少しばかりのお菓子と飲みかけのジュースが入ったペットボトルだけが、ごそごそとリュックの中で無造作に暴れている。
これでいいかと最低限の荷物を手にした俺は、駅に行こうと決意を固めた。そして部屋を出る直前になって、俺はもうとっくに記憶の彼方へ追いやってしまっていたあの本のことをふいに思い出してしまったのだ。あれがないとなんだかゾワゾワとしたものが這いずり回ってくるようで、俺は押し入れをひっくり返すようにして本を取りだし、それもリュックへ入れた。
努めて冷静に、しかし手紙も書かずに家を出た。「どこかに行くの?」と聞かれて、心臓が跳ねたが「ちょっとコンビニに行ってくるだけです」と普段通りの俺を演じれたはずだ。玄関を出て、扉がしっかりと閉まったことを確認した俺は、駅に向かって走った。
俺がこの家に帰ってくることも、きっとないだろう。
冷え切ったアスファルトをひた走り、いくつもの信号をこえて、街路樹に阻まれた街灯の、かすかな光を頼りに大通りの風を切る。指定された駅のベンチにそいつはいた。えんじ色のマフラーを巻いて、手のひらで息を受け止める姿は、見覚えがあるような気がした。
「カミュ、待ってたよ!」
こいつが呼ぶその名は、本当に俺の名前だったんだろう。しっくりと、呼ばれるたびに俺の中に馴染んでいく。
「僕のことを信じてくれてありがとう」
そいつは俺の元へ駆け寄ってきて、俺との距離を詰めた。
「僕の名前はイレブン。覚えておいてほしいな」
「イレブンさん、ですね。本当に、自分でも訳が分からないんですよ。どうして俺はここにきてしまったのか、今でも必死に考えているくらいには」
本音を言うなら、恐怖しかない。記憶を取り戻すためとはいえ、行き先も教えられていないのにここへ来た自分のことを、ばかなことしたなあとは思っている。
「そうだね。でも君はここにくることを選んだ。それは君にとって必ず良い選択になる。記憶も、戻るから」
僕が保証するよ。そう断言したイレブンの顔は確信に満ちていた。俺はたいそうなものも入っていないリュックを背負いなおして、先を歩くイレブンに続いた。
ホームで電車を待つ最中、ムダに荷物になっているあの本を取りだす。長い旅になると聞かされて、やっぱり必要ないなとゴミ箱に捨てようとした。その時だった。
「ダメ!」
イレブンが俺の腕を掴んだ。大人しそうに見えたこいつの、張り上げた声に体がこわ張る。
「なにがダメなんですか」
「それは……それはこの列車に乗るために、必要なものだから。……ね? 大切に持ってて」
嘘だな、と言ってしまいそうになるくらいにバレバレの演技だった。この本はこの青年を慌てふためかせるほどの重要な物なのか?
このイレブンという青年は、もしかして俺の持つこの本が目的だったのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
「ほら、電車が来たよ」
さあ乗ろう、と促され俺はイレブンと共に、やってきた列車に足を進めた。シックなフォルムが懐かしさを伝えてくるその列車は、車内で休むことが出来ると話だけは聞いていた、寝台列車だった。
「こんな列車、初めてです」
「……そうだね」
僕もだよ。そう言ったイレブンは、悲痛な表情で俺を見ていた。俺はやはりどうしてもその表情の意図を読み取れなくて困惑する。どう声を掛けていいかわからずに立ち尽くしたままその顔を見つめていると、イレブンが「どうしたの」と聞いてきた。なんでもないですと答えると「じゃあ僕も、なんでもないよ」と答えがくる。
そんなやり取りを交わして、俺たちは列車に乗った。
豪奢な内装に彩られた車内の中でも、ひと際値段の張りそうな部屋に案内される。照明や、机や、布団の、なにもかもが俺には一生縁のなさそうなものばかりだった。
しばらくして、列車が走りだす感覚がした。列車に乗ってから会話が途切れた俺たちだったが、ふいにイレブンが手元をもぞもぞといじり出した。同室の、ほぼ初対面の人間の行動が気にならないわけがない。露骨に見ていると悟られないようにイレブンを見ると、あいつも俺を見ていたのか、かちりと自然に目が合った。
俺が目を逸らすよりも早くに、イレブンが俺の前に手のひらを差し出す。その上に乗っている、小さな装飾品に俺は釘付けになった。
「これは……」
「これはね、カミュ。君が僕にくれたものだよ」
ひっそりとした列車に、イレブンの声が溶けた。
「俺が、これを、あなたに……?」
「そう。君と僕が、約束した証」
「約束、ですか」
左手の薬指から外されたリング。
俺たちは、俺が今想像しているような、しかも指輪まで渡すような関係だったのだろうか。
「なんてね。冗談だよ。僕も君も男同士じゃないか」
俺が目を丸めてその指輪を凝視していると、イレブンはふふっと息をついて笑った。無邪気な子どものような笑い方だ。
しかしイレブンはすぐにその表情を戻した。車窓から入り込んだわずかな月明かりに照らされて浮かび上がる瞳が、俺を見つめている。列車の走行音に邪魔をされて、イレブンの唇が描く形の意味を知ることは出来なかった。
それに呼応して、海馬が悲鳴を上げている。忘れるな。思い出せ。そんな声に苛まれて、脳を突き刺すようなひどい頭痛が俺を襲う。ぐらりと眩んだ視界にふらついて、足がもつれた。
「ほら、そろそろ寝よう」
イレブンの腕がにゅっと伸びてきて、俺の視界が暗くなる。片方の手は俺の頭に、もう片方の手は俺の背中に回されて、イレブンの胸元に抱きとめられた。俺はイレブンの突然の行動に一瞬だけ、ドキリとしてうろたえる。
「おやすみ、カミュ。良い夢を」
イレブンは俺の耳元でぼそりと、よくわからない言葉で何かを呟いた。なんだか呪文のようなそれを聞いて、頑なだった俺の瞼が閉じていく。その声を、俺はやっぱりどこかで聞き覚えがあるように感じていた。
「カミュ。君がいるべき世界はここじゃない。お願い、どうか思い出して」
白い光の本流に列車が吸い込まれていく中、そんな声が聞こえた気がした。