最後の夜の、その後で - 1/2

 
 

 カミュと僕は、恋に落ちている。僕はカミュに、カミュは僕に惚れている。きっかけは二人とも覚えていないけれど、互いの想いを心のままにぶつけ合ったあの日のことは、二人ともはっきりと覚えていた。
 豪華絢爛も行き過ぎた城から、カミュの妹を連れ帰ったそのあとで、僕らはようやく、胸の内にあった名前のわからない感情を外に出したのだ。夜の静けさに包まれた宿屋で、シルビアが「それは恋よ」と教えてくれたのはまだ――まだ記憶に新しい。
 今でもやはりその日のことは簡単に思い出せる。確かめ合うように言葉を交わして過ごしたあの夜は、僕の記憶に深く深く刻まれている。だからといってどうにかなるわけでもなく、むしろその後の怒涛の流れに呑まれたまま、関係の進展は止まっていた。お互いの体に触れたのは、後にも先にもあの夜のキスだけだったのだ。
 そんな僕らが、これからゆっくりと二人の時間を作っていこうと約束したのは、魔王を倒した祝杯の席でのことだった。今までの時間を埋めていくように、あれがしたい、これがしたいを僕はカミュにぶつけた。カミュは僕のわがままを、嫌な顔ひとつせずに全部叶えようと約束してくれるものだから、僕もついついカミュに甘えてしまっていた。
 時のオーブに辿りついたのは、そんな時だった。
「覚悟ができたら、オーブのまえへ」
 僕たちに迫られたのは、勇者だけが――僕だけが過去に戻ることだった。
「時の番人さん」
 僕は前に一歩進み出た。覚悟ならとうに出来ている。ただこのままこの世界に別れを告げるわけにはいかない未練が、僕にはまだ残っていたのだ。
「一日だけ、待ってください。まだやり残したことがあるんです」
「かまいません。きめるのは、あなたなのですから」
 僕は一度だけうなずいて、番人に踵を返した。塔を下って、ひらけた大地で音色を奏でる。魔王討伐までに何度も鳴らしたその音は、いつもと変わらないリズムでケトスを呼びだした。
 その背中で、カミュが僕に聞く。
「なあ、やり残したことってなんだよ」
「なんでもないよ。ただちょっと、平和になったこの世界をもう少し見たかっただけ」
 空の彼方、光の向こう側を見て、確かにそう伝えると、カミュはそれ以上なにも言わなかった。この時僕は、初めてカミュに対して壁を作ってしまったのだった。
 そうして僕の望み通りに全ての国を回って、僕らは最後の砦に来ていた。一度は失ってしまった、僕の大切な故郷だ。
 明日の朝、僕らはまたあの忘れられた塔に登る。その話題を口に出す者はいなかった。明日を迎える前に、なんとかカミュと二人きりで話を出来ないものか。僕はそればかり考えながら、母さんのシチューをちびちびと掬っていた。
 母さんからみんなに振る舞われた夕飯を食べ終えると、カミュは「夜風にあたってくる」と言い出て行ってしまった。僕を含めた仲間たちが、無言でその背を見送る。木製の扉が閉まる乾いた音がやけに響いた。
 カミュと二人で話をするなら今しかない。そう思った僕は、木皿に残っていたシチューを口へ勢いよく流し込んで、カミュのあとを追いかけた。
 風のように早い彼は一瞬遅れただけですぐに見失ってしまう。デルカダールほど広くないこの村で、行く場所なんてあるのだろうか。いやそんな場所、そうそうあるわけがない。心当たりといえば、いつだって人の心を惹きつけるあの大木しかなかった。彼だって例外なく、きっとそこにいるだろう。僕は脇目も振らずにその大木を目指した。
 僕が考えた通り、もう不思議な力も残っていない、大樹の根が巻き付いた村一番の大木の下にカミュはいた。
 夜風に吹かれて彼の服がなびいている。赤い腰布が暗闇の中で、はっきりとカミュの存在を主張していた。
「カミュ」
 彼の名前を口から投げた。声はそのままゆるやかな放物線を描いて、こつんとカミュの背中に当たって霧散した。それと同時にカミュが僕の方を向く。どうした、イレブン。そう言ってくれるカミュの声に、涙を流してしまいそうだった。
(過去に戻ったとき、僕は、この声を思い出して泣くのかな)
 ぐっと唇を噛みしめる。寸でのところで涙の決壊を堪えて、唇の色を変えるだけにとどめた。どんな言葉も悲しみの色に染まってしまいそうで、僕はそれきり、なんにも返すことができなかった。
 言葉を返す代わりに、僕はカミュの隣まで足を進めた。僕らの間に、夜の静寂が落ちる。ひんやりとした空気が音もなく通り抜けていく。お互いの顔を見ることが出来ずに、僕たちはずっと、木の枝に連なる葉を一枚一枚数えていた。
「ねえカミュ……。僕の最後のわがまま、聞いてくれる?」
 行きたいところがあるんだ。木に向かって話しかけた僕のそれを拾ったカミュは、するりと僕の指にその指を絡めてきた。
 遠慮がちに、控えめに、怯えるように。僕がそちらを向けばすぐに離れていってしまいそうなくらい希薄な体温が、指先から僕に流れてくる。
 まるで彼らしくない。
 でも、カミュをそうさせているのは紛れもない僕なのだ。
「どんなわがままだって聞いてやる。どこにだって着いて行ってやる。だから……最後なんて言うなよ」
 カミュも僕と同じように、木に向かって話しかける。まるでこれを介さないと話が出来ないとでもいうように、ひたすらに一点を見つめている。結局僕は一度も、カミュが話し終わるまでたったの一度も、彼の表情をうかがい知ることは出来なかった。 ただその声に涙が滲んでいるのは、はっきりと読み取ることができてしまったのだった。
「うん……そうだね」
 僕もこの情けない声を隠すように、そう言ってしっかりとカミュの手を取りなおした。予想していなかったのだろう。カミュが驚きに目を見開いて僕の方に体を向ける。ようやく見ることが出来た互いの顔は、どちらも今まで相手に見せたことのないものだったに違いない。少なくとも僕は、カミュのあんな顔を見たことがなかった。
「じゃあ、遠慮なく」
 僕はその手を引っ張った。カミュは一瞬よろめいたけれど、すぐに体勢を立て直す。さすがの反射神経を目の当たりにして、なぜだかとっても嬉しくなった。
 僕は村の奥へとカミュを導いた。カミュは僕に引かれるままに、僕の後ろをついてくる。崖に挟まれた小道を小走りで抜けて、緑の絨毯の上に敷かれた砂利の筋を辿った。吊り橋を鳴らしながらも、僕は止まらない。
「でっけえ岩」
 カミュが呟いたその声に、僕は立ち止まった。
「この岩はね、神の岩って呼ばれてるんだ。十六歳の誕生日に、成人になるための儀式で登るんだよ……って、それはずっと前に説明したよね」
 カミュと出会って数日後。イシの村のあの惨状を見た日のキャンプでのことだった。僕との距離感を測りつつ気を遣ってくれたカミュに僕は零したのだ。記憶をなぞるように、一つずつゆっくりと話す僕の言葉を、カミュは夜を通して聞いてくれた。その優しい顔が、僕の脳裏によみがえって今も焼き付いている。
 頂上のあの美しい景色は、いつでも僕の心の中で、一番特別な場所に存在していた。僕は僕の中の最高の一枚を、いつかカミュと一緒に見たかったのだ。
 ツタを登り、崖の細道を渡る。その先に広がった景色にカミュが息を呑む空気の音が、僕の耳に小さく響いた。
「これが、僕が最初に見た世界だよ」
 僕が腕を伸ばした先。そこには海が広がっていた。月の明かりの下で、黒い海が轟々と唸りを上げている。
「一度でいいから、この景色を君と一緒にみたかったんだ」
 本当は、朝日の下で見るのが一番きれいなんだけどね。
僕がぽそりとつぶやいた声は、カミュに届く前に海の音に呑まれてしまった。夜行性の鳥が、僕の目の前を過ぎ去っていく。僕は水平線を見つめて、覚悟を決めた。
「カミュ、ぼくたち」
「別れるとか言わないよな」
 言葉に詰まった。カミュはやっぱり、僕がそれを言うことを予想していたのだ。背中に刺さるカミュの気迫が恐ろしい。それでも僕は、ここで言いよどむわけにはいかなかった。
「言うよ。だって、それがお互いのためだと思うから。僕は、カミュの重荷にだけはなりたくない」
「それがオレの負担になるわけないだろ。オレのことなんて気にしなくていい。お前は……イレブンは、どうしたいんだ。それを教えてくれ」
「そんなの……」
 そんなの、イヤに決まってるじゃないか。
 僕でないとオーブを割れないから。僕が勇者だから、個としての感情を持つことがはばかられるのだ。僕じゃなくてもいいのなら、誰かに代わってほしいよ。
 うつむいた僕の視界に、カミュの爪先が映りこむ。すっかり傷んだ靴が、時間の流れを彷彿とさせた。
「最後なんて言うな。一度でいいなんて言うな」
 カミュは、なんとか喉から吐き出したような声でそう言った。その声も、風に乗って空の彼方へと散り散りに攫われていく。彼の指先はためらうように、僕の肩にそっと触れてすぐ戻っていってしまった。
 僕はハッとして彼の方を見た。
 カミュは諦めていない。熱いまなざしが僕を一瞬で射抜く。
「絶対に、別れなかったことを後悔なんてさせない」
 カミュが最後に行ったその言葉を胸に刻んで、僕は翌朝、輝かしい光の下でオーブを割ったのだ。