逆光の中に色鮮やかな夢を見る、子どもみたいな私をどうか笑わないで - 2/4

 
 
   【2】

『幼い頃の話をしよう。行き止まりで、出口のない世界に置き去りにされた私の話だ』
 そんな声が聞こえる。奇しくも、私と同じ声だった。
 要するに、夢。それで間違いない。私は死んでしまったのだろうか。声の主にそれを問うても、最後まで返事はなかった。

 その日の看守は、もっぱら悪い噂で有名だった。私たちを「灰域へ駆り出す道具」ではなく「自分のストレスの捌け口にするための道具」だと思っている傲慢な人間だったのだ。
「ぅぐっ……ってぇな……!」
「そうやって逆らうから余計に殴られるのだと、さっき教えただろう。これだから学ばない犬は嫌いなんだよ俺は」
 看守が牢を開けてユウゴを殴った。さっき懲罰室から戻ったばかりの、青痣を作ったユウゴを、だ。彼はこの看守の「気に入らないお気に入り」だったのだ。
「誰が犬だ! このやろ……離せよ……っ!」
 看守はユウゴを引き摺って外に出ていこうとしていた。駆け寄ろうとした足は、竦んでしまって一歩も動かなかった。大きな脅威に、幼い私たちは為す術もないのだと、無力感をまざまざと突きつけられる。こんな時に限って、仲間の大人たちは任務に出されて一人もいないのだ。まるで見計らったかのようなタイミングに、怒りがこみ上げてくる。けれど勝つのは、どうしても恐怖だった。
「やめて!」
 牢獄の戸が閉まる直前、私は大声で叫んでいた。看守が動きを止める。ユウゴも、目を大きくして私を見ていた。その目は何かを訴えていたけれど、必死な私にはどういう意味があるのか分からなかった。とにかく彼を助けなければ。この時の私は、そんな思考だけで動いていたのだ。
 ユウゴに酷いことをしないで、と目で訴えると、看守は関心したような目を向けて、牢獄の中に彼を放り投げた。地を滑り、呻いたユウゴに駆け寄るも、声を掛ける前に私は背後から首を絞められた。
「っ、ぁ……が……!」
 息ができない。大人の男の手のひらは、容易に私の首を片手で握り潰す。欠乏した酸素を補おうと、はくはくと口を動かしても、閉じた気道が空気を吸い込むことはない。生理的に排出された涙が、頬を伝って流れていった。
「よかったな01407番。01408番が代わってくれるみたいだぞ」
 そうだな? と鋭い視線で問われる。息苦しさから早く解放されたくて、私は何度も頷いた。
「や、め……ろ……。そいつを……離せ、よ……」
 半ば意識を失った状態になって、私はようやく息苦しさから解放された。だらりと力なく腕を垂らして、逆らえない強い力に担がれる。世界が揺れる。牢獄の外へと運ばれていくのだと、それだけは分かった。
「コイツに感謝して、そこで帰りを待つんだな」
 私のことだろうか。恐らくそうだ。他の子どもたちの悲鳴は聞こえないから、連れて行かれるのは私一人のようだった。
 それでいい。私たちはユウゴに守られているのだから、ユウゴが守っている仲間を、私も守ることが出来るなら、これ以上のことは望まない。
 私が牢から連れ出される最後の瞬間まで、ユウゴは何かを叫んでいた。ぼんやりとした頭では、その声をはっきりと拾えない。
(あとで、聞こう……)
 ガチャン。世界が閉じられる音がする。懲罰室の重い扉が閉まる。光が消え、私に訪れるのは終わらない闇だ。何度ここに入れられても、この暗い部屋の恐ろしさに慣れることは無い。
 床に乱暴に放り投げられて、私は小さく呻き声を漏らした。悲鳴を上げても、ここからは誰にも届かない。
 意識を取り戻した私に、看守の腕が迫る。後ずさった私を待っていたのは、無慈悲な壁の冷たさだった。
 夢なら早く、早く覚めてと、どこにも存在しない神に祈る。心を殺せと暗示を掛ける。どれもこれも、無駄なことだと分かっているけれど、そうせずにはいられない。でも、後悔だけはしていなかった。
 看守の手が、私を掴む。下卑た瞳で笑うその顔が、これから先もずっと脳裏に焼き付くことになるのを、この時の私はまだ知らない。本能が、再び恐怖を私に取り戻させて、私は、そのニヤついた笑みから、目を離せなくなってしまった。
 ……ここから先の記憶はない。

 目覚めたのは、いつもと同じ天井の下だった。憂鬱が空気に混じって、私に重くのしかかる。吸い込んだ空気は、鉄錆以外の匂いを持っていなかった。
 身体中が痛い。体を丸めて痛みをやり過ごす。散々遊ばれた体は、最早どこに傷があるのか分からないほどだった。
 どれくらい眠っていたのだろう。目を閉じてからそれほど時間は経っていないような気がした。その証拠に、周りのみんなはまだ寝息を立てている。もうこれ以上は眠れないと、落ちない瞼は睡眠を拒んでいた。
 宙に浮かんだような感覚のまま、硬いベッドの上で寝返りを打つ。振り向いた先で、同じベッドで寝ていたユウゴと目が合った。
「巻き込んで、悪かった」
 小さな声が、やけに大きく聞こえた。夜だからだろうか、ここが鉄に囲まれているからだろうか。そのどちらでもない気もする。
 ユウゴの青痣は、もう薄くなっていた。私の怪我も、ほとんどが治り始めている。私たちは何度もこの回復力に助けられた。けれど同時に、この回復力のせいで化け物だと蔑まれて加減のない拷問を受けるのだ。初めはその回復力に喜んでいた私も、今となっては恨みを抱く対象としか思えなくなっていた。
「……ユウゴは悪くない」
 血の味がする声で答える。ユウゴは本当に悪くない。悪いのはあの看守だから。
「お前が強いのは良く分かってる。でも、俺のために無茶をするな。俺は何があっても、こんなところでくたばってなんかやらねえから」
「ユウゴ、私は弱いよ。ユウゴがいなきゃ、朝が来るのが怖いくらい」
「……お前のいない朝を考えられない、俺のほうがよっぽど弱いさ」
「そんなこと、」
 そんなことはない。私の方がユウゴより、ずっとずっと弱いのだ。だって私は、ユウゴみたいに前を向き続けることが出来ないから。
 ユウゴに手を引いてもらわなくちゃ、どう生きればいいのかも分からない。私たちの運命は決まっているから、別の未来を想像出来ないのだ。
 戦って、戦って、戦って。最期は孤独のまま、人としての生涯を終える。それ以外の生き方は知らないし、知る必要はないと思っていた。だって、それを知ってしまえば、私は途端に弱くなってしまうから。弱くなってしまったら、私はユウゴの隣に立つことができなくなってしまうから。強さが全てのこの世界で、弱い私は彼の夢の足手まといにしかならないのだ。
 それは嫌だった。強い彼の、足でまといにはなりたくなかった。同じ景色をみたいわけじゃない。そんな贅沢は望まない。少しでもいいからユウゴの手助けが出来る、そんな強さだけあれば、いつ死んでしまってもいい。そう思っていた。
 けれどユウゴは私に言うのだ。数多の同胞の中から私を選んで、それを一緒に叶えようと手を取ってくれるのだ。
 私がいることが当たり前のように、彼の口から語られる夢。私には、それが不思議でたまらなかった。
「お互い、今はまだ弱いってことか。なら強くなって、俺と、お前で、世界を変えよう」
 寝転んだまま差し出された両手に、私も両手を重ねた。まだまだあどけない顔立ちのユウゴが、希望のある力強い笑みで私を励ます。私もそれに応えようと、ぎこちない笑顔で彼に向かって笑いかける。引き攣る唇を持ち上げれば、それなりにでも笑えた気がした。
「やっぱお前、もっと笑った方がいいよ」
 私の歪な顔を見て、幼いユウゴが言った。笑う、というのは存外難しい。今のはどうやら成功したようだ。
「おやすみ。明日も絶対に生き残るぞ」
「おやすみ。ユウゴがそう言うなら」
 互いの腕輪を軽くぶつけて、明日もこの理不尽な世界に抗う約束をする。
――そこで世界は暗転した。