たましいのいちばんおいしいところ - 1/3

 
 

【1】

 カン、カン、カン。
 金属音が足元を彩る。天窓の向こうに広がる夜はひどく静かで、冷たくて、恐ろしかった。暗闇が全てを食らい尽くしてしまいそうで、明日は来ないと錯覚させる。もうそんな日常はとっくの昔になくなったのに、俺はまだ、なにかに怯えていた。その正体がなんなのか分からないまま、俺は、今日も生きている。ひとつのエンディングを迎えて世界は変わり、人も、みんなもどんどん変わっていくのに、俺だけがここに取り残されているんだ。今宵は、それを突きつける最悪な夜だった。
 船は眠っていた。目を開けているのは俺ひとりだ。喉の渇きに目を覚ましたので、水を求めてふらふらと船内を彷徨う。行き先はほとんど決まっているようなものだった。貴重な備蓄から水分をちょいと拝借して、いただきましたと書き置きを残す。ゆるい謝罪の言葉を添えて、最後に名前をサインした。汚い字だが、俺が書いたと一目で分かる特徴的な線が逆に良いと思う。自己満足の頷きを最後に、俺はその部屋を出た。
 扉の先でも、静寂が腰を据えていた。まるでそこから動く気はないとでも言うように、俺の存在を否定するかのような重圧を持っていた。今更そんなものに潰されるようなことは無いが、それでもやはり、その重さは変わらないままだ。昼の賑やかさは、見る影もない。
 俺はこの世界の姿を知っていた。目を覚ましたのは、何も今日が初めてじゃあないからだ。全ての生物が眠っている時間に、ひとりぽつんと佇む俺はやはり、世界に取り残されているのだと思う。ある日を境にこうなった俺は(結局最後にはまた眠りにつくのだが)最終目的地としてブリッジに赴くのだ。
 誰かがいるはずはない。今日も例外なく、ブリッジは無人だった。機械すらも眠っていて、スリープを示すランプが弱々しく光っている。そんな微灯の集団の中に飛び込んで、欄干に背を預けた。金属と不等な温度交換をしながら、潤った唇と満たされた喉を鳴らしてひとりごちる。ルーチンに則った、爆発を抑えるまじないをするんだ。
「――――好きだ。今日も結局、好きなままだった」
 自嘲めいた声で、渇いた言葉を吐き出した。引きつった喉では、囁くように声を上げることしか出来なかった。けれどそれで満足だった。誰に聞いてほしいわけでもない。自分自身に聞こえていればそれで良いから、叫んで主張する必要なんて無い。だって俺は、まだ夢を見ていたいんだ。
 夜が眠れば朝が目覚めるように、夢のあとには目覚めが来る。俺は、訪れる目覚めから逃げるために、こんなところで愛を吐き出しているんだ。甘い甘い夢のような日々を永遠に見ていたい俺は、麻薬と化した幻の日常に酔っているだけの、てんでダメな生き物なんだよ。
 一通りの自虐を終えて、締めの合図に背を反らす。重力に従って髪が流れるのを、当然のこととして受け入れる。昼間なら誰かが飛んできて危ないと止めに入るのだが、生憎今は夜だ。止める人間は誰もいない。もちろん落ちるつもりもないので、しばらくスリルを堪能したのちに背筋を戻す。
 欄干は俺の体温を吸って、すっかり人肌に温まっていた。身から離れた体温に名残惜しさを感じながら、指でその金属をなぞる。意味なんて無い。ただ俺が生きていることを感じるだけだった。
 その頃には、家出した眠気が戻ってくる。あくびを何度か繰り返しながら、俺はまた、冷え切ったベッドに戻るのだ。朝までは、遠くはないが近くもない。そんな中途半端な時刻が目についた。それでも、睡眠時間は牢獄にいたころより多く取れるから、俺はこの目覚めを苦としていなかったのだ。
 部屋に戻ると、寝息と、寝言と、いびきが入り乱れていた。目覚めたときと何も変わっていない空間に、少しの安心感を覚える。俺は自分のベッドに戻る前に、とある一角を覗いた。ユウゴのベッドだ。
「相変わらず、真面目に眠ってんねえ」
 目を閉じて、口も閉じて、ユウゴは静かに眠っていた。眉間に少しだけ皺が寄っているのが気になるが、まあ元々のものだろうからいつも放ったままである。そんなユウゴの寝顔を、満足するまで眺めてから眠りにつくのがいつもの流れだった。
 けどその日は、恐らく魔が差してしまったんだ。欄干に体温を奪われすぎたから、ちょっと人肌恋しくなっていたんじゃねえかな。他人事みたいに言い訳したって、過去になったものは変えられないけど。
 俺はユウゴの手の甲に、自分の手の平を重ねたんだ。理由付けは先述の通り、寒かったから。ユウゴの体温は、冷えた俺の指先にとても優しかった。無意識にこみ上げてきていた、意味の分からない涙で視界を滲ませる。ぎゅっと目を閉じると、涙も重力には逆らえず素直に床へと落下した。それとは正反対に、いくらユウゴの寝顔を見つめても、俺は怖いと言えないままだった。
 ――そうして俺は、キスをした。
 ユウゴの口に、キスをしたのだ。ああ我ながら馬鹿なことをした自覚はある。普通じゃない自覚もある。
 触れた唇は、同じように温かかった。何の味もしなくて、何の感情も湧かなかった。けれど、俺の初めてのキスだった。ああでも、こんなの、間違っている。そんな後悔だけが残った。
 唇同士のキスは、好きな人同士がするものだって聞いたから。きっと一番おいしいんじゃないかと勝手に思っていたけれど、どうやら出過ぎた妄想だったことが証明されてしまった。それとも、俺が一方的に好きだから無味なんだろうか。
「ずっとここに、いてもいいかな」
 重なる手に尋ねてやる。返事は静かな寝息だけだった。