エデン配置にきみがいる - 1/6

 
 

「腹が減った」
 ガリ、と紙の上を走っていたペンがデスクに傷を付けた。それまで無言で端末と紙を交互に睨み付けていたユウゴが、丸くなり始めていた背筋を大きく反らして伸びをする。俺はその様子を横目で見ながら、適当に読んでいた雑誌のページを捲る手を止めてユウゴに話しかけた。
「ユウゴがそんな贅沢なこと言うなんて、珍しいな」
 よっぽど? と聞き返すと「かなり」と返ってきたので、俺は立ち上がった足でユウゴがかじりついているデスクに近づいた。
 コンバットレーションをひとつ、湯気がなくなったカップの傍に置く。じっとりとした目でユウゴが俺を見た。
「紅茶にレーションは無いだろ」
「いま持ち合わせがなくてさあ」
 お菓子があるならそれが一番良かったのだろうけれど、生憎今は長距離移動の真っ最中だ。お菓子はほとんど子どもたちにあげてしまって在庫切れ。ユウゴもそれが分かっているからか、それ以上は何も言わずに、レーションを口に放り込んでいた。菓子類のついているものだったら少しはマシだったのかもしれない。そう言うと、ユウゴは「冗談だよ。食えるならなんでもいいさ」と最後の一口を飲み込んだ。
「ごちそうさん」
 律儀に手を合わせるその習慣は、ここクリサンセマムにやってきてからのものだ。食べる前にはいただきます。食べ終わったらごちそうさま。食事に対してそんなことをするなんて、今まで知らなかったから衝撃的だった。
 レーションを食べ終えたユウゴは、もう一度だけ伸びをすると再びデスク上に集中し始めた。今度は俺たちハウンドに来ている依頼を選別するらしい。ペンに代わって端末を手にしたユウゴは、それを指で操作しながら、ブツブツと何かを呟いていた。
 当の俺はというと、まずユウゴのカップを奪い取って、冷めた紅茶を飲み干した。そして紅茶を入れ直して、ユウゴの傍に取り残されたソーサーに置き直す。立ち上る湯気に満足感を覚えた俺は最後に、始めに座っていた椅子に戻って、今度は違う雑誌を開くことにしたのだった。
 無意味に流し読みをする雑誌ほど面白くないものはない。けれど、俺はこの雑誌を読むことを止めなかった。というよりは、部屋から出て行くという考えがなかったのだ。
 まあ、邪魔だと言われればさすがに出て行くと思うけれど、ユウゴが何も言わないので、出て行かなくても良いのだろうと都合の良い解釈をしてそのまま居座ることにした。
 そうしてしばらくの無言が続いたあとのことだ。
「腹、へったな」
 ユウゴが聞き覚えのある言葉を呟いた。ぼそりと零された、ただの独り言に違いないだろうけれど、少しだけ考えてみてほしい。入れ直した紅茶の湯気も消えないうちから、どうしてそんなことが言えるのだ。俺が渡したレーションは、その薄い腹のどこに消えたって言うんだよ。
「さっき食べたばかりだろ」
 そんな嫌味を視線に含ませて、俺はユウゴに抗議した。俺の優しさを返してほしい。
 対してユウゴは、俺の抗議の視線なんて意にも介さず、下唇を噛んでいた。
「いや、減ってるけど減ってないんだよ」
「なにそれ」
 意味分かんないんだけど、と唇を尖らせると「分からなくて結構だ」と素っ気なく返された。なんだよ、もう。疲れてるんなら休めばいいだろ。
 心の中で悪態を吐きながら、俺は手元に戻していた視線をまた動かして、ちらりとユウゴを見た。あまりにもユウゴのことが憎くて、だとかそんな理由じゃない。
 ここ最近、ユウゴの様子がおかしいのだ。現に今、俺が雑誌の陰からこっそりと覗いている視界では、ユウゴが眠気にまみれた目をかなりの頻度で擦っている。その目の下には、最近になって現れ始めた大きな隈が陣取っていた。
 それに気付いたのはここ数日のことだ。てっきり俺は、またロクに睡眠も取らずに小難しい話をしたり勉強を詰め込んだりしているのかと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。それどころか、あのユウゴが、誰よりも先にベッドで眠るのだと船内では話題になっていた(というのを俺は昨日まで知らなかったのだが)。
 それだけじゃない。最近のユウゴはよく「腹が減った」と声に出すようになった。ユウゴにそんなことを言わせるほど、この環境が恵まれたものだということは俺も身をもって味わっている。空腹を声に出せば、周囲の誰かが食べ物をくれた。
 ――それにしても頻度が高すぎないか?
 あと数刻もすれば目的地に到着するのに、と、記憶にあるユウゴとの齟齬が目についた。
「疲れてるんなら、休めばいいだろ」
 開いていただけだった雑誌をばさりと顔の上に乗せて、結局俺は一度飲み込んだ言葉を声に出した。急ぎの依頼が入らない限り、到着までせっかくのフリーなのだから、その時間を休息に当てたっていいだろうに。
「……そんな余裕があればな」
 手元の端末から一切目を離さず、ユウゴは仕事を続けていた。少し苛立っているのか、棘のあるトーンで返ってきたそれに、しばらく話しかけるのは止めるかと判断する。
 雑誌を読むのはとっくに飽きていた。何度も読んだお気に入りの雑誌は、内容を空で伝えられるほど読み込んでしまっているし、次の目的地に着いたら、新しい本がないか探してみるのもいいかもしれない。そう思い直すと、早く到着してほしい気持ちがさらに大きくなった。それに反して、この空白の時間が暇になる。
 別に悪いことじゃない。暇は幸福の象徴だ。時間が過ぎるのを待つのは牢獄時代と同じはずなのに、こうも気分が違うのかと初めは驚いたものだ。
 少し前までは、灰域種の討伐は俺たちしか出来なかった仕事だったが、今はそこまで極度な戦力差があるわけではない。もちろん、それを仕事にしている以上は他に引けを取るつもりはないけれど、どうしても、後ろから追いついてくる者たちが恐ろしい。
 長く戦いに身を置きすぎたせいか、戦っていないと不安になることが増えた。灰域種を狩れるゴッドイーターが増えるのは良いことだ。けれど、いつかそれが普遍化したときに俺の価値は一体どうなってしまうのか。余裕が出来ると、ついそればかり考えてしまう。
(大型の一匹や二匹くらい出てくれれば、何も考えずにすむのになあ)
 不謹慎この上ないが、この船に乗った直後の俺なら、絶対に考えもしないことだった。ある意味では、俺も成長しているのだと思う。実感できるのがこんなことだなんていうのが少し寂しい部分ではあるけれど、それが俺の性分なのだから諦めて欲しい。
 そんなことを俺一人が思ったくらいで、アラガミがこの船の行く手を阻むことはなかった。相変わらずの駆動音を鳴らしながら、キャラバンは航路を滞りなく進んでいく。
 また余計なことを考えそうになった俺は、雑誌をマガジンラックに戻してターミナルのデータベースを適当に漁ることにした。
 ジークたちが教えてくれた、娯楽の項目を眺める。彼らが夢中になって見ているバガラリーは、今の俺が暇つぶしとして鑑賞するにはあまりにも膨大だったので止めた。
 そうなるとあまり興味をそそるものが無くなってしまったので、とりあえずの暇つぶし対策として俺は「えすえふ小説」の項目を開いたのだった。
 俺が目を閉じて選んだ小説は、そんなに面白いものじゃなかった。月の描写が珍しいくらいで、これといったインパクトがない。
(白い月、だなんて。捻った言い回しもあるもんだ)
 世紀末を記しているのだろうけれど、今の世界の方がよっぽど世紀末だろ。
 なぜか苛立ちがこみ上げてきてしまって、俺はすぐにその項を閉じた。もっと毛色の違う話を読もうと、ずらりと並ぶタイトルと睨み合う。
「ユウゴ、暇」
「俺は暇じゃない」
 ターミナルを眺めたまま、俺はユウゴに話しかけた。言葉は強いが、明らかな拒絶ではないと判断して、俺はそのまま話を続けることにしたのだった。
 ちょうどその頃、少しよさげなタイトルが目に入ったが、正直そこまで期待はしなかった。つまらない話を読むくらいなら、ユウゴと話をした方が有意義だ。
「何か面白い話でもしてよ」
「お前なあ……」
 ユウゴは呆れた様子で、持っていた端末をデスクに置いた。どうやら俺と会話をしてくれるようだ。さっきまで纏っていたピリピリとした緊張感は、いつの間にかどこかへやってしまったらしい。
「面白い話、か」
 それきりユウゴは黙り込んでしまった。さすがに無茶ぶりが過ぎたかもしれない。まあそのうち、何かしら話題を掘り出して話してくれるだろうと思い、俺は興味をそそられた小説に目を通すことを優先した。
 次に選んだ小説は大当たりだった。面白い。とにかく面白い。そう思わせるテンポの良さとストーリーの明解さが、俺を釘付けにした。
 人とは違う、怪物の話。なんだか自分自身のことを言われているようだった。最も、そこに登場する怪物は俺たちとは似ても似つかぬ生物だった。夜闇に紛れて人を襲い、鋭く尖った牙を突き立てる人間のような見た目のそれは――――、
「お前は、俺が吸血鬼だって言ったら、どうする?」
 思わずビクリと肩が跳ねた。小説の内容と示し合わせたかのように、ユウゴがそんな話題を持ってくるとは思ってもいなかったからだ。
 振り返った先にあった、俺だけをじっと見つめる黒い瞳にたじろいだ。跳ねた心臓を隠すために冷静を取り繕う。カップすら持たずにこちらを見るユウゴの威圧感に、俺は圧倒されていたのだ。そして俺は、ユウゴが言った言葉が嘘か誠か上手く判断出来なかった。
「どうだろ……どうもしないと思うけどなあ。だってユウゴはユウゴだろ」
 俺がそう言うと、ユウゴは何故か肩の力を抜いた。カップを手に取って、残っていたのだろう冷え切った二杯目の紅茶を大きく煽る様までを呆然と眺める。
「ま、それもそうだな。俺は俺で、お前もお前だ」
 だから、そろそろ自信を持ってもいいんじゃねえか。
 そう言いながら、ふっ、と柔らかい笑みを浮かべたかと思えば、ユウゴは立ち上がって書類を片付け始めた。なんだよ、あっけにとられている俺のことは放ったままか。
「……えっ? 面白い話は?」
「そんなのあるわけないだろ。ここんところカンヅメだった俺に聞いたのが間違いだ」
「なんだよぉ。期待したのに」
「はいはい、また今度な。俺も寝るからお前も早く寝ろよ」
 そそくさと片付けを終えてしまったユウゴは、部屋の照明を落とすと、そのまま自分のベッドに潜り込んで俺に背を向けた。マジで寝んのかとユウゴの体を揺すったが、無反応を決め込まれた俺に為す術はなく。俺も自分のベッドで布団を被らざるを得なかった。
 面白いと思ったえすえふ小説のことなんて、その頃にはすっかり頭から抜けていて。俺はユウゴに、冗談を使って上手くあしらわれたことに少しばかり腹を立てていた。ひとつしか変わらない年齢なのに、そういうアレソレでユウゴに勝ったためしがない。脳みその出来の、最低ラインがまず違うのだとは分かっていても、同じように成長したのに、と悔しさは滲むばかりだった。
 開きっぱなしのまま忘れていたターミナルが、時間経過でスッと明かりを落とす。部屋は瞬く間に薄暗くなってしまった。もう少しすればジークやリカルドさんも帰ってくることが分かっているのに明かりを消した、ユウゴの行動に些かの違和感を覚えた。けれど、それを上回る勢いで「吸血鬼」という言葉が俺の頭にこびりついていたのだった。