エデン配置にきみがいる - 3/6

 
 
 周囲が半分以上食べ終わっている中、俺は空いている椅子に腰掛けた。
「おとうさん、これ、フィムがあたためてくるねー」
「フィムは良い子だねぇ」
 冷めてしまった朝食の皿を、フィムが手に取った。フィムの頭を撫でてやると、とても嬉しそうに笑って、後ろについてくれていたクレアに自慢していた。今日のフィムの送り迎えはクレアの担当か、と、親離れを始めたフィムの成長が微笑ましい。それだけ見れば、とても清々しい朝だった。
 クレアは何か聞きたそうな顔で俺を見ていたが、フィムの素早い行動に振り回されて、そんな余裕はないようだった。俺だって、今は冷静に説明出来るような余裕がないんだけどなあ。
 次に俺に話しかけてきたのはエイミーだった。
「先ほど、ユウゴさんから今日は部屋で食べると連絡があったのですが、なにかあったんですか?」
 結論から言えば、ユウゴは部屋に戻ってこなかった。先に行ったのかと思い、食堂に降りてきてみれば、どこにもその姿がないのだ。探しに戻るにも気まずいし、仕事の時間は迫っているしで、ひとまず食事は済ませておこうと思ったのだ。まさかユウゴが食事について連絡を入れているとは思わなかったけれど。
「いや、それが……」
 何かあったのか、と聞かれても、何かあったとしか言いようがない。
 起こしに行ったら首を舐められて美味しそうだと言われました、なんて言えるわけがなかった。ユウゴのためにも俺のためにも、それだけは口が裂けても言えないのだ。
「ユウゴ、今日は体調悪いみたいだからさぁ。ユウゴの分の任務、俺が出るよ」
 食べたらもう出なきゃいけないから、ユウゴにはそう伝えておいて、とエイミーに言伝を頼むと、隣にいたジークが身を乗り出してきた。
「えっ、マジで言ってる? お前最近は嫌そうに出撃すんのを隠しもしなくなったってのに……っだぁ!」
「殴っていい?」
「もう手ぇ出てるからな!」
「おとうさん! ごはんあたためてきたー!」
「おおー。フィム、ありがとなぁ」
 喚くジークのことは放っておいて、俺はフィムから温まった朝食を受け取った。
「じゃあね、おとうさん。いってきまーす」
 学校へと出かけるフィムとクレアを見送って、俺はようやく食事に手を付ける。隣に座るジークが、今度は真剣なトーンで話しかけてきた。初めからそうしていればいいのに、と言いかけて、人のことを言えるような人間ではないことに気付く。ジークと気が合う時点で、俺も案外あっち寄りなのだ。
「ユウゴのやつ、そんなに体調わりぃのか?」
「えっ、と……そこそこ?」
「なんだその煮え切らねえ返事。まあいいわ。ユウゴの分の仕事、俺らで全部片付けちまおーぜ」
「ジークも手伝ってくれるのか?」
「おうよ。まあ任せとけって」
 俺がごくりと食事を飲み込むのと、ジークが席を立って出撃ゲートへと向かっていったのは、ほぼ同時だった。
「……何だかんだで、ジークが俺たちの中で一番兄っぽいよなぁ」
 遠目に去って行くジークを見ながら、まだまだぎこちなさの残る食器捌きで半分になった朝食を口へと運ぶ。もぐ、と一度顎を上下させると、極上の味が口いっぱいに広がった。
 俺は、今度はエイミーの方を見た。彼女は俺の言葉を受けてから、簡易端末を操作しながらブツブツと呟いていた。おそらくユウゴが出撃予定だった任務で、俺が出られないものをどう振り分けるか思案しているのだろう。
「エイミー、大丈夫?」
「はい。あ、お食事中にすみません。ユウゴさんの分の任務を振り分けるのはいいのですが、お二人で出撃する予定にしていたものはどうしますか?」
「あーっと……それって調査任務だっけ? 内容は?」
「はい。該当地域の調査任務です。大型種や灰域種の反応は、昨晩の時点では見られませんでした。中型種ですら滅多に現れない比較的穏やかな地域ですから、ユウゴさんがミナト設立のために立地を見ておきたいと言ったところですね」
「ああ、じゃあ俺だけで行ってくるよ」
「すみません……他の皆さんと時間が被ってしまっていて……。クレアさんが早期帰投出来たら、そちらの補佐に回ってもらうようにしますね」
「ありがとう。でも、これは俺たちの個人的な調査だし、クレアにも仕事の方を優先して、きっちりこなしてくれって言っておいてよ」
「もう……仕方のない人ですね。くれぐれも、無茶はしないでください」
 約束ですよ。と強く念を押される。
「もちろん。怪我はなるべくしたくないしねぇ」
 へらりと笑って、俺は朝食の最後の一口を飲み下した。
 
 

 一日の最後に俺が降り立ったのは、小型のアラガミが数匹点在しているだけの、比較的マシな土地だった。いつだったかも見たことがあるような、少し足を滑らせれば黒の中心へ落ちてしまいそうな夜が、口を大きく開けて俺を待っていた。
 エイミーのオペレーションは無い。彼女は突如としてハウンドに舞い込んだ、対灰域種討伐任務のオペレートで手一杯なのだった。
 無線は繋がっている。俺の声は、一方通行ではあるがキャラバンに届くようになっていた。受取先は、待機を命じられたリカルドさんだという。あの人が、俺の腕輪の信号を常にチェックしているということも聞いていた。
 俺が無理に出る必要はない。これはあくまでも個人的な調査の域を出ないからだ。それが分かっているのに、半ば制止を振り切るようにして調査に赴いたのは、なんとなく部屋に戻りづらかったからに他ならない。気にしていないようで、俺は思っているより朝の出来事をうまく処理出来ていないみたいだった。
 ひとつ、息を吸う。
 一歩、右足を出す。
 そんな当たり前のことが、とても難しく感じた。単身で戦場に出る機会なんて、今となっては数えるほどしかない。それを認識した途端に、緊迫した空気が体を覆って俺の動きを阻害したのだった。

 ――――俺が吸血鬼だって言ったら、どうする?

 俺の頭で、昨晩のユウゴの声が響いた。
 ユウゴにそう聞かれたのは、実はあれが初めてではない。あれは、たぶんユウゴにとって二度目の冗談だった。
 一度目はあの乾ききった牢獄の中でのことだ。そのとき俺は、まさかと笑い飛ばしたような気がする。もう数年は前の話だ。必死になって生にしがみつく、永遠の地獄のような毎日に埋もれて、俺はすっかり忘れてしまっていた。
 ぼんやりと、その時のことを思い出す。灰色の砂まみれになった思い出をかき分ければ、案外クリアな姿で、その記憶はそこにあった。
 俺たちに割と好意的な看守が、聞かれたくない話もあるだろうと席を外した日だった。それこそ冗談みたいな話だが、あの看守だけは本当にいい人だったのだと思う。一週間も経たないうちに交代だとかなんとかでいなくなってしまったのが、本当に悔やまれるくらいには、俺たちはあの人に世話になっていた。
 全員が揃っている時にそれが出来なかった時点で、あの人はかなり切迫した状況に立たされていたことが窺える。最も、そのときはそれに気付く余裕も観察眼もなくて、後釜としてやってきた、今までと然したる差のない人間性を持った看守の連続に埋もれてしまうことになるのだが。
 それがおよそ十年前。正確に言えば、もう少し後の話ではあるけれど、おおよそそのくらいの計算で間違いないと思う。
「吸血鬼は人間の血を飲む生き物だろ? アラガミがいるくらいだし、いたって信じないことはないけどさぁ」
 互いにあどけなさの残る声で、俺たちは話した。
「ユウゴは今まで血なんて飲んでないのに死んでないじゃん。まあそれでユウゴが死ぬくらいなら俺が血をやるけどねえ。あ、AGEは人間じゃないから、血はやれないのか?」
「さあ? いけるんじゃないか?」
「自分で吸血鬼だって言ったのに、俺に聞くなよ……」
 いつもの癖で、ひそひそ声で話したそれらを、俺は到底信じちゃいなかった。吸血鬼の存在ではなく、ユウゴが人間ではないことを信じなかったのだ。ユウゴが説明する吸血鬼の特徴と、目の前に立つユウゴ・ペニーウォートの行動が一つも被らないのに、何をもってコイツを吸血鬼だと信じればいいのだ、と、確かそう思ったのだった。
 もうこの世界では、人間かそうでないかは意味が無い。化け物はアラガミだけではないと言われたって、俺たちに害がなければ何だって良い。生きるか死ぬか、それだけが生命を分類しているのだから。
「ユウゴがそんな冗談を言えるなんて思わなかったよ」
「最近荒んだ話が多かっただろ。……笑ってくれて、よかった」
 俺が笑うと、ユウゴも柔和な目をしてふわりと笑った。今思えば、案外控えめな笑い方だったような気がする。けれど、記憶が都合良く書き換えられているだけのような気もした。
 その後は、特筆すべきことはなかった。話は出来たかい、と扉を軋ませて入ってきた善良な看守を交えて、俺たちは仲間が帰還するまで話を弾ませたのだ。
「まさか、ね」
 俺が発した声は、言い聞かせるかのような声色をしていた。あの日の冗談は俺の中で今ほんの少しだけ現実味を帯び始めていたが、けれどやっぱり、俺がそれを信じる決定打には至らなかった。
 嫌な予感を追い払うように首を振る。いつもより軽装備の神機を握りなおして、俺は動きの鈍い足をまた一歩、前に踏み出したのだった。
 周囲を改めて観察する。
 比較的開けた土地だ。小型のアラガミの数も、さっきと大して変わらない。出撃直前に見せてもらった感応レーダーは、ここから少し離れた位置に小型の群れと中型種一体を捕捉していたが、どちらも短時間で調査をする分には接触しなさそうな位置だったし、万が一遭遇しても充分離脱可能な距離と地形だ。
 慢心するなよと自己暗示をかけつつ、事前に用意していた調査項目を埋めていく。ユウゴが準備していただけあって、その内容はかなり細分化されていた。
「まあ夜の項目だけ埋めておけば、あとはいつでも出来るし。これでいいかな」
 日中の調査対象に比べて、夜間の項目が少ないのが幸いだった。この分なら、詰めの甘そうなところだけ再確認してからでも、充分時間が余るだろう。
 俺に先手を打たれてキャラバンで待機しているユウゴ顔を思い浮かべると、にやりと思わず口角が上がる。俺に出し抜かれて身動きの出来ない幼馴染みの不満そうな顔が鮮明に浮かんだ。
「少しはしっかり休めばいいのに」
 俺みたいに、と続けそうになって、すぐに言いとどまった。俺のは休んでるんじゃなくて、一般的にはサボってるって言うんだとか。だれかさんがサボらせてくれないので、サボってるうちには入らないと思うんだけどなあ。と愚痴をこぼしても、それを聞いてくれるのは小さな獲物だけだった。
「……休憩してから再開して、それから帰ろうかな」
 羽休めによさげな場所ならいくつかあったなと、俺はそこへ足を進めた。
『……、…………!』
 無線機がノイズを発したのはその直後だった。
 声は全く聞こえない。ノイズだけが必死に何かを伝えようとしている。
「なんだ……?」
 無意識に耳元に手を当てたが、何も変化はない。依然として左耳を劈く砂嵐に一抹の不安を抱きながら周囲をぐるりと見渡すが、今のところ目立った変化はなかった。レーダーにあった中型種あたりがこちらに近づいているのだろうか。それなら、小型の群れが先に目に入ってもおかしくはないはずだ。
 予定として伝えていた帰投時刻にはまだ早い。俺にしか出来ないような仕事が入ったとでも言うのか。
(こんな夜更けに?)
 無線機に注意を向けすぎたのは、失態だった。
 ぬらりと。巨大な影が俺の周囲から月明かりを奪う。大きな何かが、その体躯を駆使して起こした風で、かろうじてその正確な位置を掴んだ。
「な――」
 反射的に振り返った俺は、相手の正体を確認する間もなく咄嗟に後ろへ飛び退いた。神機を持つ手に、無意識に力が入る。
(マルドゥーク!?)
 俺が立っていた場所に振り下ろされた、白い巨体。赤い、たてがみにも見える触手器官の輝きが、禍々しくこの目を灼いた。
(大型の、しかも感応種の中でも厄介なヤツが……!)
 二度目の振り下ろしを盾で防ぐ。勢いに負けて、俺の足が地面を抉りこんだ。小型のアラガミが闊歩するこのフィールドで、よりにもよってコイツが現れるなんて、完全に計算外だ!
「リカルドさん!? 聞こえてるなら返事を!」
 背後に回り込んで、後ろ脚に一撃を入れたが、相手が怯む気配はない。
 無線機はノイズすらなくなって、何の音沙汰もなくなっていた。
「支援は期待出来そうにない、ってか……!」
 肌を刺す、偏食場パルスの乱れと形成の予兆。このままでは周辺にいる小型を全部呼び寄せられてしまう。たちまち、多勢に無勢の最悪な状況の完成だ。なんとしてでもそれは阻止しなければ、自身の生存率は著しく落ちてしまう。
 俺の勘はそう告げていた。近くにいた数匹は、既にヤツの周囲に集まり始めている。無線が繋がったのはコイツの存在を知らせるためだったに違いない。
 遠吠えの予備動作を視界に捉えた。手にしたスタングレネードのピンを抜き、離脱のための最短ルートを目測ではじき出す。
 トレーラーの位置はまだ見失っていない。いける。離脱は可能だ。
「う、わ!」
 ――が、それは上手くいかなかった。
 地面に潜り込んでいたドレッドパイクに足元を崩され、スタングレネードは俺の頭上で光った。終わりの始まりを告げる遠吠えが辺りに響く。皮膚を引っ掻くような、凄まじい圧力がビリビリと空気を震わせた。
「っ、邪魔だッ!」
 目下の敵を斬り伏せる。べちゃりと液体が飛び散った。小型のアラガミの集合率は、火を見るより明らかだ。運の悪いことに、はじき出した最短ルートは見事に潰されていた。
 ジ、と、無線機に再びノイズが走った。
『――ッ――繋がった! おい! 大丈夫か!』
 無線が繋がった。リカルドさんの声だ!
「大丈夫じゃない! マルドゥークの感応現象で呼び寄せられた小型のアラガミに囲まれてる!」
『マルドゥーク!? 敵は本当にマルドゥークなのか!?』
「この辺りでは全く目撃情報はなかったけど、目の前にいるんだからそういうことなんだろ!?」
 離脱ルートを構築してくれと叫ぶ。波のように押し寄せる様々な種の小型の攻撃を受け流しながら、マルドゥークの挙動に細心の注意を払って立ち回る。
 回避か、防御か。ひとつ選択を間違えれば命に関わる。この感覚は出来れば二度と味わいたくなかったが、泣き言を連ねても戦況は変わらない。
「くそ……小型の数が多すぎる……!」
『通信、代わりました! エイミーです! 今そちらにジークさんとルルさんが向かっています! 到着までおよそ二分! すみません、耐えて……!』
『ルルだ! 今そっちに向かっている! ッ、生きることだけ考えろ……!』
「って、言われても――――!」
 数の差で、じりじりと追い詰められていく。トレーラーへの距離が、徐々に開いていく。心配性の自分がたんまり仕込んだ回復錠が、ひとつ、またひとつと俺の体に消えていく。
 あと二分が、永遠のように長かった。
(どうする、どうすればいい!?)
 こんなとき、ユウゴなら。ユウゴならどうする。
 咄嗟に浮かんだ言葉に、己の弱さを自覚した。この場にいない人間に頼る自分はとても滑稽だ。敵をしっかりと見据えるべき視線がぐらついて、俺の不安が神機捌きにも顕著に出始めた。
(やばい、やばいやばい……!)
 受け流し損ねた攻撃が、俺の体に到達して傷を付ける。己の脆弱性を認めた瞬間に、自分が今何をすべきなのか見失いそうになった。
 オウガテイルとドレッドパイクを強引に振り払い、己の神機だけを信じて波を割く。赤が舞った土埃の先に飛び出した俺は、そこで白い空を見た。
 マルドゥークが、俺の頭上にいた。
 小型に群がられている間に、ヤツは俺との距離を詰めていたのだ。まだ、みんなが到着するまで数十秒もあるのに。ここまでだっていうのか。
(俺が、不甲斐ないせいで、)
 俺の思考は、そこで完全に停止した。
 ――いつだったか。その神機の名を聞いたとき、彼にぴったりだと、やけに印象に残ったことを覚えている。
 イマジニア。
 オレンジを帯びたその神機が、月の隠れた薄暗い夜の下で輝いた。
 ガキン! と固い音が俺の意識を呼び戻した。
「ユウゴ!?」
 どこから現れたのか、朝のあの一件以来顔を見ていなかったユウゴが、マルドゥークの攻撃を塞いだのだ。
「任務の詳細を読まないその癖、取り返しが付かなくなる前にどうにかしろよ」
 その時、俺の心に生まれたのは途方もない安堵だった。
 蹂躙されるかと思われていた俺の精神と肉体は、たった今救われたのだ。それが実感として身に染みた。
 派手な音を立てながら、ユウゴが軽快なリズムで敵の攻撃を捌いていくのを、俺はその場で茫然と眺めていた。ユウゴの普段の立ち回り方だとか、いつもどおりのユウゴだなとか、思うところはたくさんあったが、どれも言葉にはならなかった。俺の口は、乱れた呼吸を整えるのに精一杯だったのだ。
「おい、あそこだ! って、はあ!? ユウゴ!?」
 その声はジークだった。遠くからやってくる二つの人影が見える。
 救援だ。白の巨体の猛攻をいなしながら、ユウゴが二人に向かって話しかけた。
「ようジーク。と、ルルか。ちょうどいいな、小型は任せたぜ」
 ユウゴの指示で二人が散開する。今度は俺の背後で戦闘音が広がった。俺がなんとか倒しきったと思っていたアラガミがまだ生きていたのか、それとも新手が出現していたのか、そこまでは分からなかった。
 小型を倒しきった二人が、ユウゴに続いてマルドゥークと対峙する。三対一で、ヤツはあっという間に劣勢に追い込まれていた。俺が散々苦しめられたアラガミの体力を、いとも容易く削っていく様は仲間として誇らしくあったが、同時に、俺の劣等感を浮き彫りにした。
 数秒。あるいは数十秒の時間が経った気がした。
 断末魔をあげて、マルドゥークが最期にその場に倒れ伏す。緊張の解けた俺は、疲労と安堵感からその場にへたりこんでしまった。結局俺は最後まで、それを見つめ続けることしか出来なかったのだ。
 ジークとルルがこちらに近づいてくる。開きっぱなしの口に、ジークに回復錠を一つ突っ込まれた。反射的に口を閉じると、先程の戦闘中には全く感じなかったその味が、舌の上全体に広がった。
 終わったのだ。わけのわからないまま始まった、生死をかけた戦いが、今ようやく終わったのだということを回復錠とともに咀嚼した瞬間、ようやく実感として現実味を帯びた。
「エイミー。こちらルルだ。――救出は成功した」
 無線から聞こえたのは、涙の滲んだ喜びの声だった。
「大丈夫か?」
 ジークが手を差し出す。その手を掴んで立ち上がろうとしたが、どうしても上手く立てなかった。
「腰抜けた……」
「ハッ。鬼神が聞いて呆れるぜ」
「だぁからぁ。鬼神なんて名前、俺には向いてないんだって」
「ハイハイ分かった分かった」
 ジークと軽口を叩きあっていると、それまで話に入ってこなかったユウゴが少し離れた位置から割って入ってきた。
「ジーク、そいつを頼む」
「げ、俺かよ。てかユウゴお前さ、顔色悪くね?」
「普通だろ。それより、月がまた顔を出す前に、船に戻らなきゃいけなくてな」
 ユウゴの言葉に、俺は空を見た。
 月は、薄雲にその姿を隠されていた。道理で、マルドゥークの赤が映えるわけだ。
「どうせまた仕事溜め込んでんだろ? 調子悪ぃならちゃんと休めって」
 なんなら明日の仕事も代わってやろうか、とジークがユウゴをからかった。
「それほどでもないさ。とにかく、後のことは頼んだぞ」
 踵を返して、ユウゴはトレーラーの方へ向かって歩き始めた。その直前のことだ。
 ユウゴは、一瞬だけ俺を見た。その目は夜の闇に溶け込んでしまいそうなほど黒いのに、どこから取り込んだのか分からない、鮮血の赤を灯していた。俺はその異形のようなユウゴの瞳に、へたりこんで未だに立ち上がれない足の力をさらに奪われる。
 それは紛うことのない畏怖の念だった。
 
 ◇ ◇ ◇
 
 少しだけ時間が経って、俺はジークたちと共にキャラバンに戻った。ユウゴに礼を言おうとその姿を探したが、どこを覗いてもユウゴは見当たらなかった。
「あの」
 ユウゴなら医務室だよ。
 体は疲労で満足に動かせなかった。けれど忙しなく目を動かす俺を見て、クレアがそんなことを言ったのはついさっきの話だ。
 幸いにも軽傷で済んだ俺は、医務室に立ち寄ることがなかった。といえば言い訳になるかもしれないが、その場所にいることだけはあり得ないだろうと思い込んでいた自分の落ち度だった。
 キャラバンの中を走った。ガンガンとけたたましい足音が、俺の胸のざわめきそのものを表しているようだった。
 誰もいなければ、勢いに任せてその扉を開け放ってしまっていただろう。それを制したのは、そこから出てきたイルダさんだった。
 イルダさんは、息を切らせた俺を見て少し驚いた表情を見せた。怪我の具合がよくないとでも思ったのか、俺の全身を一瞬で観察するような瞳の動きを見せたが、そうではないと悟ったのか、静かに口を開いた。
「口止めはされたのだけれど、」
 あなた達が彼の代わりに任務に出ている間に、彼、倒れてしまったの。
 決して軽くはないトーンで告げられたそれに、血の気が引いた。そこまで体調が悪いなんて、朝の時点では本気で思っちゃいなかったのだ。ユウゴが体調不良だ、なんて、その場凌ぎの方便に近しいものとして、咄嗟に口から出ただけだった。
 俺の調査エリアに近づく大型種をレーダーが捉えたとき、ユウゴは偶然その場に居合わせたのだという。感応波に乱された無線のチューニングが上手くいかずに慌てるリカルドの制止を聞かずに飛び出したそうだ。そのおかげで助かったのだから、俺は礼以外に何も言えないのだけれど、けど、そういうことじゃない。
 最初の予定よりも静かに医務室の扉を開けて、腕で目元を覆いながら横になっているユウゴに話しかけた。
「助けにきてくれて、ありがとう」
「どんな仕事でも、直前の確認を怠るなよ。お前の、悪い癖なんだから」
「気をつけるよ……でも、体調悪いなら、出てきちゃダメだろ……」
「ただの貧血だ。心配しなくていい」
 それきり無言になってしまう。次になんと切り出せばいいのか分からなかった。
 横で立ちっぱなしなのも悪いかと、その辺りに置かれていた椅子に腰掛ける。ユウゴは、相変わらず俺を見ようともしなかった。そんなに辛いのならやっぱり、と出かかった遠慮の押しつけを止めると、やっぱり何を話せば良いのか分からなくなってしまう。
 こんなこと、今までなかったのに。
 ユウゴと話が続かないなんてことは無かった。無言が気まずいなんて思うこともなかった。ユウゴが放つ空気の端々に、拒絶の色が滲んでいるような気がしたのだ。
 もう、そろそろ出たほうがいいのかもしれない。
 一言も話さないまま、俺が椅子から立ち上がったときだった。
「満月まで、あと何日だ」
「三日後が、ちょうど満月だったと思うけれど」
 脈絡のない質問に、あっけに取られつつも答えを返す。意図がくめずに首を傾げていると、ユウゴがさらに重い雰囲気を纏った声で、静かに告げた。
「おまえ、しばらく俺に近づくな」