エデン配置にきみがいる - 5/6

 
 
 話は少しだけ前にさかのぼる。ユウゴに医務室から追い出された後のことであり、ジークと話をすることになった、その前夜のことだ。
 仕事が少しだけ少なかった日の夕暮れ。一眠りするには短いけれど、それ以外のタスクをこなすには有り余ってしまう、中途半端な時間をどう過ごすか考えあぐねていた俺は、イルダさんの執務室の本棚の前に陣取って、一冊の本と睨み合っていた。人ならざるものについての文献だ。アラガミが出現し始めた、最初期の頃のものだった。アラガミとは何なのか。それを、時代に取り残されてきた未解明の異形と比較しようといった内容だ。後ろに記された発行日が、ずっと遠い過去のことのような気がする。眉唾物に変わりはないけれど、すっかり様変わりしてしまう前の数十年前の記録は、俺にとっては架空の世界を描いた小説を読むのと同じようなものだった。
 現在、人ならざるものといえば真っ先にアラガミが口に出される。他になにがあるのだと、口を揃えて言うと思う。それが簡単に想像できるくらい、それらの存在を聞いたことがなかった。俺自身に学がないのももちろんだけれど、この本に載っているような、吸血鬼や人狼といった異形の存在は、とうに人々の記憶から忘れ去られているのかもしれない。本を読んだ限りでは、昔は不可解な事件が起きるたびに、それらの存在についての話題がついて回ったと書かれていたが、今は全て「アラガミ」か「オラクル細胞」のどちらかで片付けられてしまいそうだ。
「ねえイルダさん」
 俺が基準にならないのなら、他の人に聞いてみようか。本を読む目の動きはそのままに、俺は広いデスクの前に座るイルダさんに話しかけた。
「なにかしら。辞書なら隣の棚よ」
「あ、いや、大丈夫。辞書は今いらないから」
「そう。随分読めるようになったのね」
「まあねぇ。ユウゴに付き合ってたら嫌でも読めるようになるよ」
 ユウゴ、とその名を口にした瞬間、孤独感が胸を通り過ぎた。今日も顔を見なかったな、と、湿った感情が影を落とす。今までの人生であり得なかったことを、俺はまだ受け入れられていなかったのだ。
「良い事よ。それで、私に何を聞きたかったのかしら?」
 彼女は、カップをソーサーに置いて俺の方を向いた。
「イルダさんはさ、吸血鬼っていうのが、本当にいると思う?」
 手元の本を捲る。少し劣化の進んだ紙の音が、会話の空白を埋めた。
「……珍しいものを知っているのね」
「まあ、ちょっとした好奇心で」
 イルダさんが、驚いた顔で俺を見た。そしてすぐに、俺の持っている本に目を向ける。それを見て、納得のいった表情で彼女は話した。
「あなたが今読んでいる本も、それについて書かれているものよ。普段は置いていないのだけれど、依頼されて保管してあるの」
「え、読んだらマズくないか?」
「いいのよ。保管の名目で寄贈してもらったようなものだから」
 吸血鬼を含めたそれらの存在を知る者はもうほとんどいないのだとイルダさんは語った。それを知るには、俺のように娯楽として小説を読むか、それについて研究している人間がほとんどなのだと。そんな機会は、普通に過ごしている限り人生で一度、あるかないかの可能性だと言われてしまった。イルダさんが驚いたのは、そういう背景があるからだろう。
「その本に興味を持つなんて、あなたはよっぽど――」
 イルダさんが何かを呟く。声が小さくて、俺にはうまく聞き取れなかった。
「何か言った?」
「何でもないわ。ただの独り言よ」
 それならいいかと、再度本を読み進める。読了まで、彼女が俺に話しかけることはなかった。