次に目が覚めたときには、医務室のベッドの上だった。真新しいカーテンで区切られていたが、何度も運ばれたそこを見間違えるはずもない。見慣れた上着が壁のハンガーに掛けられているのを見て、俺は察した。俺はユウゴに運ばれたのだ。
しかし、件の本人はこの場にいないようだった。カーテンの中だけでなく、部屋全体に人の気配がない。
昇降機はどうなったのだろう。俺がここにいるということは、あの昇降機の安全装置が解除されて、再び動きだしたに違いない。……いや、やっぱり考えないようにしよう。(あいつのことだから巧妙に隠しただろうけれど)血まみれのユウゴと、気絶した俺のことを見た誰かがいるなんて、考えるだけで恐ろしい。
俺は上体を起こして軽く体を動かした。かなりの血液が体から出ていった気がしたが、貧血症状は見られない。関節の可動にも問題なし。すぐにでも出撃出来そうな程だ。
ユウゴに噛まれた右肩は、何事もなかったかのようにその熱を散らしていた。指先にかろうじて引っかかる程の小さな噛み痕だけが、夢ではないと訴える。まだそれが残っているということは、あれからさほど時間が経っていないのだろう。
俺がぐるぐると腕を回していると、カシュンと扉が開閉する音が鳴った。靴が床と接する、固い音が数度跳ねる。さらりとカーテンが僅かに動いた。
「ユウゴ――」
それを開けたのはユウゴだった。
もう何日も俺を避け続けた、あのユウゴだったのだ。
ユウゴは一瞬かち合った目をそらし、かたわらに備え付けられていた椅子に座った。俺が起きているとは露ほども想定していなかったのだろう。手に持った食料やら飲料やらを置きもしない、その動揺ぶりにむしろこちらが心配になる。
ユウゴの腕に抱えられていたのは、最近ちらほらと見かけるようになった、高級品の果物だった。丸くて艶のある、真っ赤に熟れたその果物の名前がりんごだと知ったのはこの歳になってからで、しかもその知識はターミナルの小説経由だ。本物を見たのは初めてだった。
俺がそのりんごを凝視していると、ユウゴがハッとした表情でようやくそれをサイドテーブルに置いた。ごろんと倒れたりんごを立て直すのは、いつもならユウゴの役目だ。けれど今日は、どうやら俺の役目のようだった。
「そろそろちゃんと話してくれる? 隠しごとはもう無しにしよう」
サイドテーブルから落ちそうになったりんごを受けとめて、俺は静かに、けれどはっきりとユウゴにそう告げた。
おそらくユウゴは、本人が言ったように吸血鬼なのだ。俺は、すでにそんな結論を出していた。あとはユウゴの口から、冗談を取り除いた声色で一言、それを告げてくれれば、俺はもう何も言うことはない。ユウゴが俺を避けた理由は、恐らくそれに起因しているのだと、的中ではなくても決して的外れでもなさそうなところまで行き着いていたのだった。
けれど、ユウゴは何も言わなかった。俯くばかりで、目をそらすばかりで、口だけでなく心までも閉ざすのかと、寂しさが募る。
「……ユウゴはユウゴだろ」
ユウゴは、わかった、と小さく呟いた。おもむろに開かれたユウゴの口から、消え入りそうなくらいのか細い声が出る。俺は、それを聞き逃さないように、静かな医務室で耳をそばだてた。
「昔、ペニーウォートにいた頃だ。一度だけお前に、俺がもし吸血鬼だったらどうする、って聞いただろ」
「そんなこともあったよな」
それきり、ユウゴはまた口ごもった。あれが冗談なんかではなかったことは、今の俺が身をもって知っている。
「……やっぱ言えない?」
「いや……、だが……」
そりゃそうか。今までのことを顧みるに、ユウゴの口からそれを聞くのは中々に難しい話かもしれない。なにせ本人が二十年間、真実を周囲に伝えることが出来なかったのに、今さらはいそうですと軽々しく話せるようなことでもないだろう。俺なら、絶対に無理だ。
「ごめん。やっぱり無理に話さなくても、いい。さっきのと、今の言葉で大体察しはついたから」
そう言うと、ユウゴは「ちがう、そうじゃない」とはっきり口にした。
「俺のほうこそ、悪かった。きちんと話すよ。ちゃんと全部、な」
ユウゴの話は、こんな状況でもなければ全く信じられないようなものだった。
吸血鬼なのだと自覚したのは、適合試験を受けるたった数ヶ月前のことだったらしい。親というもののことを知らないユウゴにとって、自分というものの情報があまりにも少なかったのだ。だからユウゴは、自分のことを人間だと思って生きていたと言う。吸血鬼らしい特徴が発現していなかったのも原因だろう。あの頃のユウゴは、誰が見たって人間そのものだった。
けれど、吸血衝動だけはごまかせなかった。ユウゴが初めて飲んだ血は、自分のものだったらしい。飲み込んだ瞬間、科学なんかでは到底説明できないような高揚感とともに、自分のルーツを悟ったのだとユウゴは言った。望まない適合試験に臨んだのはその後のことになるのだろう。
「適合試験を受けた、その数日後には既に、俺は吸血鬼としての特徴を失っていた。体は元々、ある程度成長するまで人間と同じ速度で大きくなる種だったから気にはしていなかったんだが、その日を境に、血を飲みたいと思わなくなったんだ」
「それまでは、血を飲んでたってこと?」
「…………少しは。体もここまで大きくなかったからな」
偏食因子が細胞の遺伝子配列を組み替えたのが原因だと見ている。ユウゴはそう言った。それが、ユウゴの吸血鬼としての部分を食らったのか? こればかりは調べてみないと分からないけれど、このご時世にそんな高度な技術が現存しているのかと聞かれれば疑問が残る。
「太陽の光に弱いとか、十字架に弱いとか、それから」
吸血鬼は恋をすると、愛する人間の血と薔薇の生気しか受け付けなくなる、とか。
そう言いかけて、口を閉じた。先日執務室で読んだ本に書かれていた内容だけど、これを言葉にするのは些か恥ずかしさが勝る。否定されたら羞恥心で蒸発してしまいそうだ。
「それから?」
「あー、っと……血を飲まなかったら死んじゃう、とか?」
「元々、純血の吸血鬼じゃあないからな。俺はどちらかといえば人間寄りに出来てるらしい。太陽も十字架も、何の意味もねえよ。血は、生きるために必要かと言われればそうでもなかったな。自分の血を舐めれば、人間としての部分を摂取して最低限死ぬことはない。そこが、純血の吸血鬼より効率がいいんだ」
そう言うユウゴの腕には、痣になった噛み痕が残っていた。俺の首筋にあるものと、それは同じものなんだろう。上着の下にこんなものを隠していたことに、俺は全く気付かなかった。
「けど、それとこれとは別で、人の血を体に入れないのは普通に辛くてな。常に徹夜明けみたいな怠さなんだ。そうだっていうのはわかっていたが、何年もただの人間をやってると、つい忘れちまってたみたいでさ」
「それが出てきてからは、どうやって凌いでたわけ? 全然そんな素振りもなかったじゃん」
「自分の血を舐めて抑えてたんだよ。マズくて飲めたもんじゃなかったけどな」
今のユウゴはとても生き生きとしていた。あれだけ色濃く出ていた隈は、影も形もない。
「じゃあ、俺のことを避けてたのは……」
俺がそう切り出すと、ユウゴは一瞬言葉に詰まったみたいだった。
「お前が近くにいると、衝動に任せて襲ってしまいそうだった。それだけはどうしても避けたかったんだ。力が戻ってきてからずっと、お前の匂いが気になって仕方がなかった。甘い匂いがするんだ。満月の日が近づくにつれて、お前の血が飲みたくて自制が効かなくなる、そんな自分のことが怖ろしいと思った。……結局こんな目に合わせちまったお前には、本当は合わせる顔もないんだ、俺は」
俯くユウゴの表情は窺えない。声は、徐々にしぼんでいく。膝の上で固く握られた拳は、力の加減が出来ていないのか僅かに震えていた。
「……今は、俺が近くにいてもいいの」
「ああ……お前のおかげで、な」
それは、俺の血のおかげで満たされたということだろうか。今のユウゴは、その本能とやらに惑わされてはいないようだった。被害者ではあるけれど、役に立ったのなら嬉しいことに違いはない。
ユウゴの話は続いた。
「エルヴァスティの奇跡。あれがあってから、どうもうまく抑えられねえ。自分の血でも、喉は渇いたままだった。腹も減ったままだった。お前とブリッジで出会ったのは、その直後だったよ」
そこから先の記憶がない。ユウゴはそう言った。次に気付いた時には、停止した昇降機の中だった、と。気絶した俺の姿と、口に残った血の味に、自分がしてしまったことを受け入れざるをえなかった。そう語ったのだ。
怖くないといえば嘘になる。正規のゴッドイーターたちが俺たちAGEを恐れたように、自分と違う存在は、多少なりとも畏怖の対象になる。でも、俺にとっては今さらだ。ユウゴはユウゴであって、それ以外の何者でもない。
「……時間が経てば、また血が欲しくなるんだろ? それだと結局、根本的な解決にはなってなくない?」
ユウゴは何も言わなかった。
「図星だろ。自分の血が代わりにならなくなったんなら、嫌でも他人の血を摂らなきゃいけないはずだ」
否定されない。つまり、俺の予想は当たっているということだ。ユウゴはこれから、生きるために誰かの血を飲まなきゃいけない。
「さすがに女の子たちにお願いするわけにもいかないよな。だからまあ、女の子の血よりは美味しくないと思うけど、仕方がないから俺の血でガマンしてよ。存分に、利用してくれていいからさ。そんなの気にする仲でもないだろ」
早口でまくし立てると、自然に涙が出てきた。何も悲しむことなんてないのに、誤作動を起こすのは止めて欲しい。
「それは、」
なんだよ。なにか不満でもあるのか。そう言ってからかってやろうとした時だ。
「それは、本当お前の気持ちなのか」
呼吸の方法を忘れるほど驚いた。見透かされていることに、だ。不純物が取り除かれた、澄んだ黒の双眸が俺をまっすぐに見ている。
涙はきっと誤作動じゃあなかった。俺の本音は、自分を騙せてもやっぱりユウゴを欺けない。頬を伝った一粒の涙を腕で強引に拭って、俺は心を決めた。
「――俺も、隠し事は無しにする」
俺の本当の気持ちは、表に出すにはあまりにも醜いのだ。でも、誠意には誠意で答えるべきだろ。
「俺さ、きっとユウゴのことが好きなんだよ。ユウゴに避けられたとき、胸がすごく苦しかった。人間じゃないってことを知ってもなんとも思わなかったけれど、俺じゃない人間の血を吸うこともあるんだって考えたときに、それは嫌だってはっきり思った」
嫌なんだ。ユウゴが俺じゃない誰かのことを頼るのも。ユウゴを生かすのは、俺であって欲しいとさえ思っている自分のことも。全部全部、醜い独占欲を剥き出しにしているようで嫌なんだ。ユウゴが俺の血を飲みたいと言ったときに、喜んだ自分がいたことが、嫌で嫌で仕方が無いのだ。
「俺のことを、好きになってなんて言わない。だから、俺以外の血を飲まないで」
これが恋だと言うのなら、こんな恋心は捨ててしまいたい。けれど、それが出来ないから苦しくてたまらない。
「大丈夫、俺はね。たぶん、どんなユウゴでも愛せるよ」
最初から、それだけは決まっていた。世界がどれほど変わっても、自分自身がどれだけ変わっても、その答えだけは変わらないと思う。たぶん、なんて言うのは俺のいつもの悪い癖だ。
懇願を握りしめた手は、ユウゴに縋ることが出来なかった。最後の言葉は自分でも驚くくらい震えていた。ユウゴに拒絶されることを、きっと死ぬことよりも恐ろしいと感じていたのだ。
無言が、不可視の刃となって心臓を刺す。黒い瞳を見ることが出来ない。
触れたシーツは冷たくなっていた。りんごは不動を維持していた。
時間が停滞していた。永遠に続くような気がしていた。
――それは、永遠にはならなかった。
「俺は、お前の血だから欲しいと思ってる。甘い匂いがするのもお前だけだ。噛みついて、飲みたいと思わせるのもお前だけだ」
嘘、みたいだ。夢みたいだ。俺の汚れた心が、その言葉を都合よく解釈したんじゃないかとさえ思った。
顔を上げる。それがこの場で出来る全てだった。ユウゴの話す言葉が、聞き間違いなんかじゃないと自分自身に証明するために、俺は口の動きとその声をリンクさせなければならなかった。
「あー……違う、こんなことが言いたいわけじゃない」
気の抜けた声に、少し安堵する。いつものユウゴがそこにいた。
「俺も、お前のことが好きだ。お前にだけは、本当の俺を知っていて欲しいと思ってた。でも、それを知ったお前に拒絶される可能性を考えると、本当のことは言えなかった。その結果がこれだ。あんなことをした俺には、これを言う資格なんてないのは分かってる。でも俺を殺せるのは今、世界でお前しかいないんだ」
愛させてくれ。
そう言って重ねられた手に、俺は拳の緊張を解いた。なんだ、お互い臆病になっていただけだったのか。それが分かると、息苦しかった呼吸がいくらか楽になった。
「はは、熱烈すぎ」
俺は不器用に笑っていた。涙は喜びで乾いていた。コンマ数秒見つめ合って、子今度は静かに唇を重ねていた。回り道をしてしまった俺たちが、ようやく出会った瞬間だった。
「俺の血は、美味かった?」
柔い接続は離された。味覚と触覚がまだ求めている。そんな中で俺は聞いた。これだけは聞いておきたいと思ったのだ。
ユウゴは面食らったように俺を見て、そして答えた。
「ああ、美味かったよ」
その言葉を聞いて、俺は満足げに微笑んだ。
(20190117-20190303)