一番の煌き

 

 

 ために溜めた仕事を、なんとか休日に入る前に片付けて、ホメロスは自宅に帰ってきた。終電になんとか間に合い、ふらふらの足で玄関のドアを開ける。明かりのひとつも点いていない家に帰ってくるのは珍しい。ホメロスは真っ先に、いつもはこれ以上ないくらい明るい笑顔で迎えてくれる、同居人の部屋に足を運んだ。
 音を立てないように、そっとドアを開ける。月明かりもない夜の下、ぼんやりとした照明に、グレイグの姿は照らされていた。ホメロスとは一回りも大きさの違うベッドの上で、規則正しく胸を上下させているグレイグの姿を認め、ホメロスはまた、そっと静かにドアを閉めた。
 少しばかり物足りない。そんな気持ちを抱えつつ、ホメロスはその足でリビングに向かった。脱いだ背広をダイニングチェアに掛け、よれたシャツのままそこに腰かけた。テーブルに置かれてあった料理のラップを捨てて、温めもせずに箸をつける。早く食欲を収めて、シャワーを浴び、泥のように眠ってしまいたい一心で口に運ぶ。ホメロスが温めないことを初めから分かっていたかのように、濃い味付けがされていた。なにもかもお見通しのようで、疲労の溜まった脳が少々苛ついたがすぐにその感情も消えてしまった。仕方がないので、朝になったら料理の感想でも言ってやろうと、ホメロスはフッと口角をあげた。
 そこからの記憶は曖昧である。
 ホメロスが次に目を覚ましたのは、自室のベッドの中であった。きっちりとシャワーは済ませており、我ながら余念がないなと日々の習慣に感謝する。汚れたまま布団に入るなんて、考えたくもなかった。部屋はまだ暗い。新月の夜は、まだ明けていないようである。短時間で休息を取る、染みついてしまった習慣を今度は呪った。
(カーテンはさすがに閉めていなかったようだな)
 頭側。眼球だけで見上げた先には絵があった。月のないキャンパスに、我こそはと輝く星たちが、窓に映し出されていた。ホメロスは星に目を奪われ手を止めた己を、珍しいと思った。まだ疲れているのだろう。だから自然に癒しを求めてしまうのだと、そう評価した。まあ明日は休みなのだ。少し夜更かしして、空を見上げるのも悪くはないか。ホメロスはすっかり冴えてしまった目で、もっとよくその絵を見ようとベッドの上で壁にもたれた。幼い頃のように、体を丸めて膝を抱える。黒で世界を覆う新月のとばりは、日々の忙しさの中に埋もれた静寂をよみがえらせてくれるようだった。
 それを断ち切る音が、部屋に響いた。それは小さな小さな音だったが、ホメロスがそちらに顔を向けるには十分な大きさをしていた。ドアを開けたその同居人は「すまない、ちゃんと帰っているのかと思ってな」と寝起きの声で話した。
「ああ、ちゃんと帰っている」
 ひと目見ればわかるような返事を、いたずらっこのような笑みで返した。返事に困って
おろおろとしているグレイグに、ホメロスはもう少し言葉を送った。
「一緒にみないかグレイグ。昔みたいに、きれいな空だ」
 グレイグは眠そうな目を大きく開いた。なにをそんなに驚くことがあるんだと、ホメロスが内心むっとしたことには気づかない。ホメロス自身も、自分がグレイグを何かに誘うことが久々であると、その時は思いだすことが出来なかった。
 先ほどよりは雑にドアを閉めて、グレイグはホメロスの隣に座った。軋むベッドの音
も、背景の一部として同化する。
 時間も決めずに、言葉も交わさず、二人はしばらくの間窓を見つめていた。永遠とも、一瞬ともとれるひとときを、こうして二人で過ごすことがこんなにも落ち着くのだということを、ホメロスは随分忘れていたなと心でつぶやく。重ねるようにグレイグも、声に出して呟いた。
「こうしていると、ホメロスが昔教えてくれたことを思い出すな」
 月のない夜は、星が綺麗なのだと教えてくれたのはホメロスなのだと、グレイグは笑った。
「あのときは恥ずかしくて言えなかったことなんだがな」
 その先の言葉を、ホメロスは一生の宝にしたいと思った。
「月よりも星よりも、隣で輝くホメロスの髪が、一番きれいだと思ったものだ」
 ――今でもそう思っているよ。
 そんな最高のおまけまでついてきたのだから。

 
 

(20171007:第2回グレホメワンライ「月」)
(20180225:個人誌に収録)