息をする兵器

 

 

 初めに思い出したのは戦いの記憶だった。
突き刺したときの肉の感触。聞きなれた悲鳴。嫌になるほど見た血の赤。すべて己が体験したことであり、すべて自身が経験したことのない出来事だ。クロムが思い出したのは、そんな矛盾のひとかけらだった。
この矛盾が、何を意味するのかは分からない。己の記憶のはずなのに、他人の記憶のような気もしている。そこに出てくる己の姿は、今の己の姿ではない。クロムはそれが気がかりだった。振る舞い方、話し方こそクロムに似ているが、ミラージュではない自身の顔を思い出せないのなら、もうどうしようもない。剣の扱い方までそっくりそのまま、生き写しのようであるのに、顔が思い出せないだけでこうも信用し切れないとは。クロムは小さくため息をついた。
記憶が戻ってきたのに、それがどこか遠い世界での出来事のようで信じられなかったのは、まだ自分が「何者なのか」自信が持てないからだろう。クロムはそう考えた。人間と同じように考え、話し、行動できるが、どこからどう見たってミラージュは人間ではない。それだけはきちんと理解している。なのにそんな状況で「自身が人間であった頃」のことを思い出しても、上手く飲み込むことなんて出来るわけがなかった。
しかしそれも、些細といえば些細なことだ。クロムは、自分の存在について深く悩んだことがない。蒼井樹という少年が、クロムを「クロム」たらしめてくれているからだ。彼がマスターであるからという単純な理由などではなく、ほぼ全ての記憶を失った中で唯一覚えていた、自身の名前を伝えた時から――樹が「クロム」を受け入れてくれた瞬間から、クロムはクロムになったのだ。
たとえ己が何者であったとしても、樹が己を「クロム」と呼んでくれる限り、クロムは樹の相棒だった。記憶がないのだから、他のどんな存在にもなりようがない。それに今更、他の存在になろうなんて気もさらさらない。深い闇の中からクロムをすくい上げてくれたマスターのため、樹のために戦おうと決めたのだ。だからもし、樹がクロムを拒絶することがあるとしたらクロムはもう生きていけない。己に物理法則が当てはまるかはさておき(物理学というものを樹の高校の教科書から学んだが、クロムにはまだ理解出来なかった)、パフォーマを与えてくれるマスターを失ってしまっては、ミラージュは生きていけない。それ以前に、樹に距離を置かれてしまうようなことがあればクロムはクロムとして生きていけなくなる。そう言っても過言ではないくらい、クロムにとって樹の存在は大きかった。一本の剣に命を預けていた記憶の中のクロムとは違い、今のクロムは樹に命を預けている。
昔の自分は、それを許しただろうか。考える。答えは出そうにない。
ミラージュとして、樹の代わりにこの姿で戦うことは出来ない。それが出来れば樹を戦わせる必要がなくなるのだが、試した段階でそれは出来ないと悟った。あくまでも、クロムたちミラージュはこの世界では脇役なのだ。クロムたちミラージュだけで成り立つ物語は、この世界にはない。スポットライトは途切れることなく、常に樹たちに当たり続けている。
だから、全てを樹たちが受け止めなければならなかった。敵を切り伏せたときの重い抵抗感からも、耳をつんざく断末魔からも、仲間が傷つく姿を目の当たりにすることからも、樹たちは逃れることを許されない。クロムが樹と歩むこの物語は、そんな試練の連続で紡がれている。クロムは、少しだけそれを嘆いていた。それがどれだけ精神を摩耗させるかを思い出してしまっていたからだ。己のマスターである樹がそんなに弱い人間だとは思っていないが、それでもやはり心配だ。初めて己を纏って戦った樹から流れ込んできたあの「恐怖心」を、クロムはずっと覚えている。当たり前だ。クロムは自ら進んであの感覚の波へと立ち向かっていたが、樹は違う。怖いと思うのは当然だろう。死が間近にあることを自覚しているかしていないかということも、クロムと樹の決定的な違いだった。
クロムに出来ることと言えば、樹を守ることだった。「クロムはクロムだ」と言ってくれる、あの優しい少年の心にこれ以上傷を付けさせたくない。樹を守ることは、樹のミラージュである己の役目だ。マスターの剣であり、盾であるのがミラージュだ。
また、なにか思い出すときが来るかもしれない。だが、ピースの足りない過去よりもこれから描かれる未来に目を向けたい。樹が描く樹だけの物語を、クロムは傍で見届けてみたいと思っていた。

 

(20200822:Titele by 天文学)