午前零時の不完全なまぼろし

 

 

 深夜、日付が変わるその一瞬だけ、鏡に運命の人が映るんだって。
樹が噂話と都市伝説が大好きなクラスメイトから半ば強引に聞かされたのは、そんな眉唾物の怪談話だった。
「そんなのウソに決まってんだろ」
「赤城くん、怖いんだ?」
「怖くなんてねーよ」
「ならやってみればいいじゃない」
「だれがそんな挑発にのるかっての、な、イツキ」
「えっ、俺!?」
「イツキくんはやってくれるよね!?」
トウマとパンを食べていただけなのに、とんだ昼休みになってしまった。話を振った斗馬に、樹は恨めしそうな視線を向ける。樹の視線からさっと逃げ去った斗馬は、一口では収まりそうになかった食べかけのパンを口いっぱいに詰め込んでいた。しばらく口を開くつもりはないらしい。スマホを弄りながら無関係を決め込む友人の姿に、この窓から放り投げてやろうか、と一瞬思案したがすぐに止めた。天井の低い校舎の、たった二階からの高さでは、アクションを仕事にしている斗馬にさしたる影響を与えられないと考えたからだ。仮にも俳優として働いている友人の顔に傷がついてはいけないとか、そういうことを考えたわけではない。考えたかもしれないが、口に出すなら前者だ。なにせ友人なのだから少々過激な発言も冗談で済む。実行だけはしないが、斗馬と樹はそれくらいの仲だった。
クラスメイトの女子はというと、樹の暗く湿った視線とは正反対のきらきらとした水面のような瞳を今度は樹に向けていた。よほどこのテの話が好きなのだろうということが一目で伺える、疑いようのない輝かしい目だ。パンを食べようとしていた手も思わず止まる。
「そう、だね。まあ鏡を見るだけなら出来ないこともないと思う、けど、」
「じゃあ決まりね、今夜よろしく! あっ、今度結果聞かせてねー!」
「えっ、ちょっと、」
樹は持ち前の優しさで答えた。もちろん、ホラーに過度な恐怖感を抱いたことがないという前提はある。そして話を聞く限りオカルト的な手順もなく、ただ「鏡を見る」だけだという話だから拒否をするような要素もなかった。しかしだからといってすぐに頷けるような内容でもない。出来るだけやんわりと、穏便に。一旦はぐらかして彼女の興味が別のものに移るまで待とう。そんな思いがのった樹の返事が、あのクラスメイトに伝わるはずもなく。樹は「お昼ごはん食べてくるから!」とバタバタと教室を出ていった彼女の後ろ姿を唖然とした顔で見送るしかなかった。
「ほこり立てんなよなー」
ごくりと大きく喉をならした斗馬が、樹の向かい側で他人事のように呟いた。元はと言えば斗馬が受けていた話だろ、と脳内の樹はしゃべっていたが、もう怒る気にもなれない。嵐のようなあのクラスメイトになにもかも持っていかれてしまったようだった。残ったのは今晩鏡を見なければいけないという現実だけだ。
「というわけで、がんばってくれ」
「なにが、というわけでだよ。トウマのせいだろコレ」
「引き受けたのはイツキだろ?」
「引き受けてないし、俺じゃなくてもいいからトウマがやってよ」
「俺あした朝早いからムリだわ」
「明日は一日オフだって昨日聞いたけど」
「あー悪ぃ、さっき連絡あってさ。午前にちょっと仕事入った」
ほら、とスマホの画面が樹の眼前に突きつけられる。守秘義務とか無いのか、とツッコミたくなったがグッと堪えて文字を追った。真ん中の辺りから読み始めたのは正解だったようで、斗馬への仕事の説明が簡単に綴られているのがすぐ目に入った。文面からして、どうやら相手は女性のようだ。
「詳しいことは事務所で話すから、学校の帰りに寄ってちょうだいね」書かれた文章が樹には少し羨ましかった。いくら恋愛ごとに興味がないとはいえ、学校という閉鎖された世界の外側にいる異性に多少なりとも興味を惹かれるのが思春期というものだ。
「だいたまに行こうって約束はどうするんだよ」
この画面の女性と斗馬が仕事をするわけではないのだが、友人を取られたような気分だった。明日は久しぶりに斗馬と遊びに出かける約束をしていたのだ。今日の午前に終わったテストの、その打ち上げのようなものだった。もう一人、幼なじみを誘ったのだが用事があるとかで明日は遊べないそうだったが、それはそれとして斗馬と出かけるのは久しぶりのことだったのだ。その約束をしたばかりなのに。
斗馬はスマホを引っ込めて言った。
「行くに決まってんだろ。ただちょっと遅れるかもしんねーから、そんときは連絡するわ」
「ん、許した」
「許されました、っと」
樹は、斗馬が自分の仕事にどれだけ真剣に打ち込んでいるかを知っている。そして彼が、どれだけ情に厚い男であるかも知っていた。そして赤城斗馬という男が、友人である蒼井樹という人間に対して最も壁を作らない人間であることを知っていた。
芸能界に片足を突っ込んでいる斗馬は、傍目から見れば特異な存在だった。それは、樹たちが通う高校が別段芸能に特化しているわけではないからだ。春先、就職や進学のためにと書かされた書類の学科欄に記入した「普通科」の文字が記憶に蘇る。今まで事例がなかったわけではないが、斗馬は現状、この学校における唯一の芸能人だった。そんな斗馬にとって、芸能人という色眼鏡をかけない樹が良い友人になるのは当然の結果だったのだ。
樹はというと、どこにでもいるような普通の男子高校生だった。天才でも秀才でもなく、ひたすらに平均を走る成績とたまの寝坊による遅刻。昼は友人と食事をし、夜はSNSを眺める。友人から誘われれば遊びに出かけるし、誘うことだってある。他の生徒と違うのはアルバイトをしていないところだが、それは樹に限った話ではない。のっぴきならない事情があればやぶさかでもないが、今のところ樹はアルバイトを必要としていない。それだけのことだった。
が、それはそれ、これはこれである。
「やっぱり俺が試さないとダメ?」
「引き受けちまったんだから、やるしかないんじゃね?」
「引き受けてないんだけど……」
手に残っていたパンの続きをもそもそと食べ始める。口ではそう言うが、樹はもうほとんど諦めていた。斗馬の笑顔が、先程のクラスメイトの彼女とそっくりだったからだ。
「俺も結果が気になるからさ、明日教えてくれよな!」
「そう言うと思ってたよ……」
はあ、とわざとらしくため息をついても、斗馬の笑顔から輝きが消えることはなく、樹は今度こそ完全に諦めたのだった。

 

秒針があと二周すれば、いよいよ実行のときが来る。二十三時五十八分。可視化できる小さなアナログ時計が洗面台のそばに置かれていることを憎むのは、あとにも先にもきっと今日だけだろう。
前日のテスト勉強のせいで帰った早々に昼寝をしてしまった樹の目は、向かい合う鏡の中でもしっかりとまぶたを持ち上げていた。どうしてこんなことをしているのだろう。そう考えている自分の顔が、はっきりと映っている。よくよく考えれば、鏡に自分以外の姿が映るわけがないのだ。だから運命の人が映るわけもない。昼寝から目覚めた樹は、テスト明けの回らない頭で突然あんな話を聞かされた昼間よりさらにしっかりとあのオカルト的な噂話を否定した。
なのに、なぜかこれを試さなくてはいけない気がしていた。胸騒ぎともいえない、奇妙な感覚だ。しんと静まり返ったひとりぼっちの洗面所で、樹は深く息を吸った。
午前零時まで、あと一分。六十秒が異様に長い。まだ少し疲れがとれていない自分の顔がそこにあり続けることを早く見届けて、さっさとベッドに戻ろう。そう思えば思うほど、心臓がうるさくなる。怖いのか、と自問しても怖いとは言いきれなかった。自分が今なにを感じているのか、樹はそれを表現するすべを持っていなかったのだ。

あと五秒。変化なし。
四秒。なにもない。
三秒。樹はぎゅっと目を閉じた。心の中で針を数える。
二秒、一秒。時は来た。

「……なにも変わってないな」
拍子抜けする結末が待っている。樹が望んだ、まさにその通りになった。
午前零時。秒針を含めた全ての針が天を指した瞬間、樹は運良く目を開けた。鏡に映っていたのは、目を見開いたまま少し早く胸を上下させて呼吸をしている、パジャマ姿の樹自身だった。ほっと胸を撫で下ろしたときに、樹は自分が恐怖感を抱いていたことに気づいた。やはり、信じていないとはいえ怖いものは怖い。いつのまにか握りしめていた手も、汗でしっとりと湿っていた。
もう二度とこんなことはしないでおこう。樹はそう決意した。手を洗うついでに顔も洗った。なんの効果もないが、洗い流すことで良くないものも落ちる気がしたのだ。
「なにもなかったって言えばいいんだよな、うん。何もなかったし」
言い聞かせるように呟く。堰を切ったように独り言が流れ出た。たった二十五秒間の――正確に言えばカウントダウンを始めてから三十秒間の――濡れた顔をタオルで拭くまでの短い時間だったが、テストの四十分間よりも長く感じた。まるで先の見えない道を歩いているような、途方もない長さだ。それを実感するのがこの時間にこの場所に立った人間だけなのだと思うと、上手く逃げた斗馬がやはり恨めしい。樹はいつか斗馬にも同じ体験をさせてやると意気込んだ。
タオルから顔を上げる。目を強く押さえすぎたのか、視界が少しぼやけていた。問題ない。何度か瞬きをすれば、次第にはっきりと見えるようになっていく。蛇口の方へ顔を向けたまま、樹は瞬きを繰り返した。
「……!?」
それは一瞬の出来事だった。視界の端の方にあった鏡の中の自分の姿が、一瞬、マンガに出てくるようなファンタジックなものになっていたのだ。連続したまばたきの中での出来事であり、じっくりと見ることは叶わなかったが少なくともパジャマ姿でなかったことは確かだった。
鏡の中の樹は、ひどく驚いた顔をしていた。パジャマ姿と相まって、滑稽なものに見える。昼寝から覚めて以降、あくびは一切出なかったが、あの一瞬で夢を見たと思うしかなさそうだった。鏡の中の自分が、あの一瞬だけ見えた色鮮やかなマントをたなびかせていたのなら夢だとは思わなかっただろう。だが、何度目をこすってもそんなものは一切映らなかった。
「…………もう寝よう」
果たして、なにもなかったと言いきれるのか。寝ぼけていたという笑い話でいいのか。悩みに思考を働かせることが出来るほどには、樹の頭は動いていなかった。明日、だいたまで斗馬に相談してみよう。そして絶対に斗馬にもやらせよう。樹の中には、そんな鋼のように固い決意が芽生えていた。

 

(20200827:Title by 天文学)