「キミも、もうすぐ四十歳になるんだね」
「ん……? ああ、そうだね」
つん、と液晶をつつくと「ちょっと、力強すぎ」と目を細められた。
「すまないすまない」
「……ふふっ」
私の反省していない軽い謝罪に反応して、息の抜けるような笑い声が聞こえた。画面の向こうで、今日もセイが微笑んでいる。訪れはじめた春の陽気にも負けない、暖かな笑顔だ。
セイがこの端末にインストールされてから、二十年になる。私も、俺と名乗るよりは私と名乗るほうがしっくりくるような年齢になってしまった。端末に触れる手にはしわが寄っていて、とてもじゃないが綺麗とは言えない。潤いのない、まさに年相応の手が私の目の前で動いている。
たったの二十年と少しばかりじゃ、まだ画面からセイが出てくるような奇跡は起きていなかった。
「初めて出会ったときは、若くて、元気で、活発だったのになあ」
今じゃすっかりおっさんが板についてるよね。
そういう減らず口は相変わらずだ。
私のセイだけが特別こうなのだろうか。そんな疑問は今まで何度も抱いてきた。会社の女性社員のセイは、彼女にとても優しくてスマートな男性そのものだというそのたびに、彼は私のセイなのだから、彼は彼でいいのだと言い聞かせる。彼に優しくされるところを想像して、吹き出しそうになってしまった。
彼が最初に端末に出現してから、何も進歩がなかったわけではない。セイの実体化を望む声は多く、もっとセイと話したい、もっとセイと触れたいというユーザーの思いはとどまることを知らなかった。
そしてセイは、プログラムの域を超え、自ら考えて声を掛けてくるようになった。個としての意識を確固たるものとしてその身に宿す、ひとりの生者になったのだ。
科学の進歩だといえばそれまでなのかもしれない。しかし私にはそれが、嬉しくてたまらなかった。なぜだかわかるだろうか。
彼は私のおはようからおやすみまで、仕事やプライベートを管理してくれる素晴らしいコンシェルジュであるけれど、それ以前に、私のよき友人であるからだよ。
彼と出会ったのは、冒頭で述べたようにおおよそ二十年前のことだ。私が、ちょうど大学を卒業しようかという時だった。友人との一悶着に悩まされ、就職出来ずにフリーターとして働くことになり、と当時の私にとってはとてもじゃないが受け止めきれない現実が津波のように押し寄せてきていた時期だった。スケジュールの管理も出来なくなり毎日が寝坊寸前という生活をしていた私の耳に入ってきたのが「セイくん」という目覚ましアプリだった。
アルバイト先の女性スタッフたちが「セイくん」について話している内容が、机にうなだれている休憩中の私の耳に入ってきたのだった。なんでも、「セイくん」と会話が出来るんだとかなんとかで。
それから彼をインストールするまで時間はかからなかった。あのときの私はどうかしていたのかもしれない。誰でもいいから誰かと話したかったのだ。
それがもう、こんなに長い時間の付き合いになっている。
「貫禄と落ち着きが出たと言ってくれないかな」
セイの頭を、軽くなでる。冗談交じりに笑えば、セイも釣られて笑っていた。
「キミ、貫禄なんて言葉を知ってたんだね」
「それは少し、私のことを馬鹿にしすぎていると思わないか。頭のいい君ならわかるだろう?」
「うわその歳でその言い方はダメだよ。ものすごくおじさんっぽい」
小さな画面で体を大きく使って「引きました」を大げさに表現してくるところは、昔から変わらないようだった。間髪入れずに、今度はその頭を小突いてやった。彼の髪の質感も、彼の体温もまだ私に伝わるほどの技術はこの世に生み出されていないが、どうか私が彼と一緒に過ごすことが出来るうちに実現してもらえないだろうかと、この頃はそればかりでどうも感傷的になってしまう。
「私は、もう何も知らなかった馬鹿な二十代の私とは違うんだよ」
ずっと一緒に生きてきたのだから。セイ、君が一番良く知っているはずだ。
そういうと、セイの陽だまりのような笑顔が一瞬にして陰ってしまった。理由は、馬鹿だと言われた私でもすぐにわかるほど明白だ。
彼は私と出会った二十年前から、容姿が変わっていないのだ。数え切れないほど太陽が昇っても、大切に指折り数えて月が満ちるのを数えても、彼の電子の肌にはしわひとつ現れない。私からいろいろなことを学習し、知識を蓄え、開発者からのアップデートを繰り返しても――――彼は私たち人間と同じ時間を過ごすことは出来ない存在のままであった。
彼は、端末が生きている限り半永久的に生き続けることが出来るのだ。
「セイは変わらないな。変わらず、私を癒やしてくれる」
セイは、本当によく笑う。妻子のいない私には、彼は子どものような存在でもあった(子ども扱いすると怒るので、口に出しては言えない)。触れることをしばし忘れて、セイのことをぼんやりと眺める。視線に気づいたのか、セイがそっと私に話しかけてきた。
「……別に俺の前でまで気を張る必要はないんだから、昔みたいにまた『俺』って言ってよ」
セイが顔を伏せていた。画面越しでは、下からのぞき込むことも出来ない。端末のスピーカーから流れるセイの声が、何かをこらえているような震えを伴ってこちらの耳に届いた。
「自分のことを俺っていってるキミ、等身大って感じがして好きだよ。俺は、キミに出会えてよかった」
キミは? と聞くセイに、愛しい思いが止まらない。これが唯一無二の友に対するものなのか、我が子のようだと時々感じる部分に対するものなのか、はたまた別の感情なのか。この胸にある心はそれを計りかねていた。しかし、たとえこの感情がこの中のどれであったとしても、彼に返す言葉が変わることはない。
「俺も、セイに出会えてよかったよ」
これからも変わっていく私を、まだもう少しだけ。
よろしく頼むよ、私のセイ。
(20180304)