午前五時。雄英高校ヒーロー科一年、轟焦凍の朝は早い。
抜け殻になった布団を丁寧に畳んで、心持ちわずかに隅に寄せた。
慣れた所作には無駄ひとつ見られない。生まれつき乱れにくい髪を手櫛で梳かして、赤と白のコントラストに少し眉をひそめた。今更なにがあるわけでもないが、鏡で自身の姿を見ると無意識に動いてしまう。こればかりは仕方がない。十数年の癖は、そう簡単には変えられないのだと、彼は既に思い知っていた。
手早く着替えを済ませた轟は、寮の五階から階段を下り始めた。起き抜けの下肢は、ゆっくりとスリッパでリズムを刻んでいる。エレベーターを使わないのは、轟なりのトレーニングのつもりだった。成果が出ているのかは分からないが、まあ何もしないよりはマシだろうという結論に至ってもう数ヶ月になる。最近の休日は専ら階段移動だ。
通り過ぎようとした食堂は、まだしんと静まりかえっていた。昨晩の騒がしさは影も形もない。切島や上鳴が爆豪をからかったあとの爆発音も、それを諭そうとする飯田の大声も、女子たちのブーイングの嵐も、全て夢のように消え失せていた。その静寂に、少し寂しさを覚えて立ち止まる。己の感情を見つめることが出来るようになった今は、寂しいという感情も存外悪くないと思えた。
外はまだ、朝と言うには不十分だった。太陽が気配だけを地平線から覗かせている。清々しい空気をめいっぱい吸い込むと、それに呼応するように、臍のあたりがくるると鳴いた。朝のランニングの合図だ。
「……よし、やるか」
――轟焦凍の朝は早い。自主訓練のために外出許可をもらっているのは、六時半までのたった一時間だ。腕時計がきっかり五時半を示したことを確認してから、轟は日課のランニングを始めるのだった。
シャワーを浴び終わって食堂に顔を出す頃には、すっかりクラスメイトたちが集合していた。どうやら轟が最後のようだ。
「あ、おはよう轟くん」
最初に轟に気付いたのは緑谷だった。その挨拶を皮切りに、テーブルを囲んでいたクラスメイトたちが次々と轟の方を向く。
「おはよう轟!」
「おはようございます、轟さん」
「轟、こっち座れよー。今日の洋食セットのスクランブルエッグ最高だぞ!」
「ばっか。轟はいつも和食だろ」
仲間達が、好き勝手に自分のことを話している。そんな空間がなんだかこそばゆい。入り口で立ち止まっているのも不自然なのだが、轟はそのむず痒さに気を取られてしまっていた。
着席を促された椅子に視線を移す。その途中で轟は、じっと自分を見つめる緑谷と目があった。ころりとした大きな瞳は、朝の眠気をものともしていない。ふわりと、その顔が轟に向けて笑った気がした。
コンマ一秒。あるのかと問われれば、きっとそんな時間すらなかった。たったの一瞬、砂粒のような大きさの刹那だ。視線が噛み合ったと認識した次の瞬間にはもう、緑谷は飯田や麗日に話しかけられて笑っていた。
轟は、緑谷が自分を見ていたこと自体が、嘘のような感覚に陥った。
やはり気のせいだったのだ。そう思って、名残惜しくも緑谷から目を逸らそうとしたときだった。
麗日と会話をしながらも、緑谷が轟を見たのだ。様子をうかがうような控えめな視線と、轟は再び目が合った。先程の出来事は、嘘でも、夢でも、幻でもなかったのだと初めて実感が伴った瞬間だった。
轟と目が合うとは思ってもいなかったのだろう。緑谷は、大きな瞳をさらに大きくして、またすぐに轟を視界から外してしまった。
「とどろーき?」
上鳴か、切島か。爆豪のことを考えればきっと前者が轟のことを呼んでいた。誰に呼ばれているだとか、そんなこと、今の轟にとってはどうだってよかった。
緑谷と目が合った。そのせいなのか、なぜか胸が高鳴っている。その事実が、轟によってなによりも重要だった。早朝のランニングのせいだというには、あまりにも時間が経ちすぎている。
「ああ、いま行く」
じっと緑谷を見つめても、もう視線が合うことはなかった。
――少し寂しい。その寂しさの原因も、その感情を抱いた理由も分からないまま、轟は促された席に向かって歩き出した。少し軽快になった心臓に目を向けるが、そこにはいつもと変わらない、見慣れた服の模様があるだけだった。
気付くと、日はとっぷりと暮れていた。夕食の時間と言うには少し遅い頃合いだ。
クラスメイトの大半は既に夕食を済ませているらしく、食堂には今朝の賑やかさはなかった。飲み物を傍らに置いて勉強をしている者もいる中で、轟は夕食を食べている緑谷の姿を見つけた。轟が見ていることには気付いていないようだ。
だからなにがあるというわけでもないので、轟はすぐに緑谷を眺めるのを止めて、食事を受け取りにカウンターへ赴いた。腹の虫がくるると鳴いている。
今日の和食セットはなんだろうか。蕎麦、は、確か昨日の昼食になっていたから今後一週間はおあずけだ。轟はあまり期待せずにメニューを見た。
『和食セットはなくなりました』
メニューに貼られていたのは、そんな手書きの紙だった。天ぷらがどうやら人気だったらしい。仕方がないので洋食セットを注文する。こんな時でもないと、洋食を食べる機会はない。半券と一緒にトレイにのせられたのは、綺麗に成形されたハンバーグだった。
感謝を伝え、トレイを持つ。カウンターから離れて、轟は椅子に座るために動いた。その行動に迷いはなく、視線を彷徨わせることもない。向かう場所は、あらかじめ決めていたのだ。
「となり、いいか」
降ってきた声に、緑谷は驚いて上を見上げた。しかし、声の主が轟だということに気付くと、すぐにその表情を緩めた。
「あ、轟くん。おつかれさま。いいよ、僕のとなりでよければ」
緑谷は、口に運びかけていたハンバーグの動きを止めてそう言った。その謙遜に対して轟は「お前のとなりがいいんだ」と反論しようとして、やめた。緑谷の笑顔に言葉を奪われたのだ。
轟は、緑谷の快諾を受けてその右側に腰を下ろした。
緑谷のところに向かった明確な理由を、轟は持っていなかった。持っていなかったが、そこに向かう以外の選択肢も、結局のところは持ち合わせていなかったのだ。
なぜ、そう思ったのか。それを考えながら、轟はハンバーグを箸で割いた。静かに口へと運びながらぼんやりと思考を巡らせたが、そんな結論に至った理由は結局のところ分からずじまいだった。自身を無意識に突き動かした感情の名前はおろか、その形を捉えることすら出来なかったのだ。
「轟くんも自主練?」
思考に耽る轟に、緑谷は話しかけた。も、ということは、緑谷もそれが理由で遅くなったのか。轟の思考はすぐそれに切り替わった。
緑谷の皿の上の料理は減っていなかった。緑谷のことだから、轟が何か話すのを待っていたのかもしれない。そこまで至って轟は、少し悪いことをしたと反省した。
つやのある料理を前に、空腹は敵わなかったのだ。手は無意識にハンバーグを口に運んでいた。ごくりと肉を飲み込んで、次の一口を運ぶ合間に「ああ」と返答する。それを聞いて、緑谷はさらに会話を続けた。
「今日は和食のメニューが売り切れちゃったみたいで、残念だったね」
「洋食も嫌いじゃない。……まだ慣れないけどな」
「そっか」
そこで初めて、緑谷も轟に倣ってハンバーグを口へと運んだ。それ以降、会話はしばらく途切れてしまう。訪れた静寂は、広い食堂を覆っていた。
けれど、不思議と居心地は悪くない。ぽつり、ぽつりと会話が再度始まるまで、そう時間はかからなかった。授業のことだとか、個性のことだとか。時折交わされる短い会話の中に混じる、金属食器の高音が耳に一番よく届いていた。
「ごちそうさまでした」
夕食を食べ終えたのは、ほぼ同時刻だった。轟の食べるスピードが速かったのか、緑谷が轟に合わせたのかはわからない。けれど、一緒にごちそうさまの挨拶ができたことに嬉しくなって、轟の表情が少しほころぶ。
「轟くんのわかりやすい笑顔って初めて見るな」
ハンバーグ、とっても美味しかったもんね。
そう言った緑谷の、ふわりとした柔和な笑顔がとすりと胸に刺さった。笑顔になったのは、ハンバーグを食べたからではないのだが。
しかし、それは些細なことだった。緑谷が笑って話しかけてくれるから、それだけでもうどうでも良くなってしまったのだ。
緑谷は、空になった食器の乗ったトレイを持って立ち上がった。追随するように轟も同じようにして立ち上がる。
いつものようにトレイを厨房に返して、二人で並んで食堂を出た。
道中。緑谷は轟に話しかけつつも、時折ぶつぶつと自己の世界に潜っていた。表情豊かに語る、洞察力に満ちた考察に轟は舌を巻く。廊下の先を見ながら聞いていた話だったが、気付けばずっと緑谷を見ていた。
「あ、」
それまで楽しそうに話し続けていた緑谷が突如立ち止まった。
「ここ、僕の部屋だ」
腕を持ち上げて、震える指で緑谷が指した扉は、緑谷自身の部屋だった。
「ごめん!」
話に夢中になって轟をここまで連れてきてしまったのだと、慌てて謝る緑谷を轟は宥めた。緑谷の話を聞くことに夢中になって、ここまで着いてきたのは自分の判断なのだから。
緑谷の驚いた声を聞き、周囲の景色を再度認識したときには、轟は緑谷と共に彼の部屋の前にいた。食堂を出てからここまで、時間にしてほんの一瞬。まばたきをしただけで終わってしまったような気でさえいた。それほどに、緑谷出久が語る話が面白かったのだ。
部屋までの帰路は、いつもとは全く違っていた。それは単に、緑谷が隣にいたからではなかった。廊下の先を見ながら歩くような、ぼんやりとした時間にはならなかったのだ。
何気ない話でも、不思議と心が惹かれていた。緑谷の圧倒的な知識量が素直にすごいと思っていたし、緑谷の話し声は早口なのに聞き取りやすく、そしてなにより心地良かった。
「緑谷の話は、おもしろかった」
そう、おもしろかったのだ。緑谷が声を上げるまで、轟は他のことなど一切考えていなかった。他のことを考えられるほどのキャパシティは、轟の思考にはなかったのである。
緑谷のきらきらとした表情は、夜を照らす照明に勝るとも劣らない輝きだった。比べることすらおこがましいくらい、綺麗で美しい笑顔だったのだ。
「ならよかった、のかな……?」
おずおずと、緑谷は轟を見た。
「轟くんが笑って聞いてくれるから、つい話しすぎちゃった」
ごめんね、と緑谷は苦笑した。喜びが過半数以上を占めているその表情に、轟の胸元がきゅっと狭まる。それは、朝食のときに感じた胸の高鳴りによく似ていた。
「じゃあまた明日。おやすみ、轟くん」
ひらりと軽く手を振って、緑谷は轟に最後の挨拶をした。轟の胸のあたりにある心を染めていたのは、青い寂しさだった。また明日も、緑谷に会えるのに。
ぱたん、と扉が閉じられる。
自室へと消えていく緑谷の背中を、轟はずっと見つめていた。