午前四時。プロヒーロー、本名轟焦凍の朝は早い。
とは言いつつも、今日は一日オフである。つまりは休日。轟にも予定がある。それでも体が資本の仕事柄、トレーニングは欠かすことの出来ないものだ。だから轟は、高校時代から続けているランニングだけは休まないと決めていた。
冷たい空気を吸い込む。吐き出した息は白くて温かかった。冬が来たのだと告げる、半透明で乳白色のそれを視認することが轟のひそかな楽しみでもあった。
コンビニの明かりばかりが目立つ街路を、ぽつりぽつりと人が歩いている。誰も彼もが厚手の防寒具に身を包んで、寒さに背を丸めながらマフラーの下で鼻を啜っていた。そんな中で轟は、トレーニングウェア一枚で立っている。
冷感は無い。体温調節の方法は、体がしっかり記憶していた。念入りにストレッチをしてから、ひとたび駆け出す。冷気がむしろ心地良かった。
耳に掛かったワイヤレスイヤホンからは、懐かしい曲が流れていた。曲自体はずっとずっと昔からある、定番といってもいいものであり、特筆するほど好みの曲でもない。アップテンポの曲ばかりが流れるプレーヤーで、轟が入れた音楽でもなかった。しかし、これらの音楽を聴くと、毎度必ず、懐古的な情動が轟を揺さぶるのだった。
その理由を、轟は理解していた。ランニングに励む轟に対して、音楽に明るいクラスメイトがこれを提案したのだ。音楽プレーヤーとイヤホンを共同スペースであれこれいじっていると、気付かないうちにクラスメイトの殆どが轟の周囲に集まっていた。そして思い思いのおすすめの曲を轟のプレーヤーに入れていったのだ。
懐かしさは、そこから来ていた。
曲が切り替わるたびに、これは切島の曲だ、これは瀬呂の曲だ、これは耳郎の曲だ、これは芦戸の曲だ、とかつてのクラスメイトの名前が脳裏をよぎる。胸が熱くなった。
全員分の曲を二度聴き終わる頃には、日が昇り始めていた。深呼吸を何度か繰り返して、息を整えるついでに自宅まで歩く。隅の方に小さく、二人分の苗字が書かれたポストを覗いて、昨晩取り忘れていた紙の束を引っ掴む。玄関扉の内側からリビングに向かって歩く道中、それらを上から順に見てまずは同居人宛のものを選り分けた。
そして残った郵便物の中にめぼしい物がないことを確認すると、轟はそれらを少々雑にテーブルへ置いた。それよりも先に、することがある。
轟は同居人の姿を探した。「緑谷出久様」と書かれたこの封筒を渡そうと思ったのだ。
結論から言えば、緑谷の姿はなかった。昨夜は遅い帰宅だったから、きっとまだベッドの中で夢へと浸っているのだろう。
シャワーを浴びて、朝食を取ったら緑谷を起こそう。少し視線を上げた轟は、昨晩片付けて物をなくしたはずのテーブルに、まだ少し暖かい朝食がラップを掛けて置かれていることに気付いた。
轟と緑谷は、同じ家に住んでいる。
その方が、お互いに都合が良かったのだ。それ以外に理由なんてない。少なくとも、轟はそう認識していた。互いのヒーロー生活においてどうしても出来てしまう穴を、互いが出来る範囲で補う。緑谷が、偏りがちな食生活を。轟が、乱雑になりがちな清掃面全般を担当する、そんな関係であった。雄英高校を卒業して、そこそこ日数が経った頃。轟が緑谷に提案したのがきっかけだ。
「緑谷がいると、落ち着くな」
同居生活の初日に、そう言って緑谷を驚かせてしまったのは記憶に新しい。驚いた緑谷の、赤くなった頬に今度は轟が驚いて、思わず右手で冷やそうとしてしまった事件だ。
緑谷の熱は冷めるどころか悪化してしまい、目を回して倒れてしまった。
目を覚ました緑谷は、のちに別の友人にこう語ったらしい。
「あんなに優しい声で、微笑みながら言われたら耐えられるわけないよ。さすが、新人一年目にして付き合いたいヒーローランキングのトップになっただけはあると思いました」
素直な気持ちを伝えただけなのに、と些か疑問は残ったが、体調不良ではなかったことに安堵した。緑谷が倒れると、とんでもない異常事態なんじゃないかと不安になる。轟の中に積もった、今までの経験がそう言っていた。
なんだかんだで前述したとおりの役割を自主的に担いながら進んできた同居生活は、今日でようやく一年となる。盤石な基盤を築きながら過ごしてきた日々は、この先もずっとそうあり続けるのだと思っていた。それが、昨日までの話だ。
この頃、それが揺らいでいる気がしていた。麗日お茶子の個性を体験したときのように、心が無重量で不安定になるのだ。自分の感情が矛盾を孕みはじめていることに、轟はもう少しで気付けそうだった。否、矛盾していることは既に気付いていた。互いに都合が良いから一緒の家に住もうと提案する前には、そのメリットを脳の思考回路が擦りきれそうになるくらい考えた。緑谷が一緒だと落ち着くのだと、こぼれた本音は偽りなんてなくて、純粋な気持ちだったはずなのに今じゃそれがとてつもなく邪な感情だったような気さえしている。ぐちゃぐちゃな感情が一切の制限もなく飛び交う轟の心の中は、まるで宇宙のようだった。
シャワーを浴びた轟は、緑谷が作った(としか考えられない)朝食を食べながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。轟の嗜好に合わせて作ったのか、玉子焼きは砂糖でも塩でもなく出汁巻きだった。
『昨日の味噌汁も温めて飲んでね』
添えられていたメモは、少し字が崩れていた。気遣いの溢れたそのメモを、汚さないように料理から離れた位置に避ける。しかし、最終的には財布にしまったのだった。
空になった食器を洗い終わる頃には、リビングの時計が午前六時を指していた。緑谷を起こすには、まだ早い時分だ。轟は、再度椅子に座った。
テレビをつけずに過ごすリビングの空気は、轟の胸を通り抜けるばかりだった。ちらちらと何度も確認する時計は、一向に進む気配がない。洗濯機はタイマーを掛けてしまったから、なおさらする事がなかった。なにより、緑谷の快活な声が聞こえないことが轟の孤独を助長していた。乱れた心情も相まって、まさに宇宙にひとりぼっちで投げ出されたような感覚だった。
椅子から立ちあがったのは、この恐怖から逃れるための反射だったのかもしれない。そんな考えにはこれっぽっちも至らなかったのだが、あとから考えるとそれが正しかった。
緑谷の寝顔でも見に行くか。それくらいの軽い気持ちだと信じて疑わずに、轟は緑谷の自室の扉をそっと開いた。
カーテンで遮光されて、そこだけはまだ夜の世界だった。その奥のベッドで、緑谷は寝息をたてて眠っていた。
轟は新鮮な心地だった。一年一緒に暮らしたとはいえ、寝ている緑谷を起こす機会は早々ない。そしてその新鮮さを上回る安心感に、ほっとため息を吐いたのだった。
一歩踏み出した足は、おぼつかなくて何かを蹴った。マズいと咄嗟に確認したそれは、なにも入っていない紙袋だった。
「とどろきくん?」
その音で目を覚ましたのか、緑谷はのそのそと寝返りをうって轟の方を向いた。扉の隙間から入る光が眩しいのか、薄ぼんやりと霞む暗闇の中で目を細めている。
「悪い、起こした」
「ん、だいじょうぶ。一回起きてるしね」
顔に掛かる髪を払いのける仕草も、寝起きだからか鈍い動きをしていた。「おかえり」と投げられたそれに「ただいま」と返す。一年ですっかり馴染んだ挨拶だ。
「朝ごはん、うまかった」
月並みだが、ありがとうと言葉で感謝を伝える以外の方法を、この場で思いつくことが出来なかった。それでいいのだと、緑谷はいつも肯定してくれるのだが、轟は言葉だけでは足りないのだとずっとずっと思っていた。けれど今日も「ありがとう」以外に送るものを轟は用意出来なかったのである。
そんな轟の悩みを知ってか知らずか、緑谷は「どういたしまして」と笑った。
その笑顔だけで、轟は充足感に流されそうになった。ぐちゃぐちゃな感情が溢れてこぼれて落ちてしまいそうなのに、だ。
緑谷にはまだまだ敵いそうにないと心で苦笑しながら、轟は緑谷が眠るシングルベッドへ近づいた。
「轟くんも、もう少し寝る?」
緑谷は少しだけ、自分が被っている布団を持ち上げて轟をベッドの中へと誘った。ふわりと舞った香りは、緑谷が使っている石けんの香りだった。
今日くらい、二度寝をしても許されるだろうか。
おとなしく緑谷のいるベッドへと潜り込んだ轟は、控えめにスペースを埋めた。この時になってようやく、多少の恥ずかしさが遅れてこみ上げて来ていたのだ。そんな轟に大きく布団を被せて、緑谷は言った。
「今日の夜は、ハンバーグにしよっか」
これが自分の恋心なのだと、閃いたのは偶然だった。稲妻が走るように一瞬で、バラバラの感情が繋がったのだ。そうして気付いたのは、どの感情も全て緑谷への思いから始まっているということだった。始まりは、きっとあの夜の食堂だ。
「ハンバーグを作ってるときはね、轟くんの笑顔を思い出すんだ」
覚えてる? と微笑む緑谷が語ったのは、偶然にも轟が思い浮かべていたあの夜のことだった。運命は、案外都合がいいのかもしれないと錯覚してしまいそうになる。
「轟くん、今日は少し寂しがり屋なのかなって思って」
寂しさには、人肌が効果的なんだよと緑谷は自信ありげに言った。そうか、そういうものかと、轟は素直にそれを受け入れた。けれどきっと、緑谷じゃなければこんなことはしない。そんなはっきりとした意思を今の轟は持っていた。
――告白を、今ここでしてしまおうか。
よぎった思いは、緑谷の声に遮られた。
「ほんとは話を聞いてあげたいんだけど、ごめん。もうちょっとだけ、寝かせてね」
その声は、再び眠気を帯び始めていた。
緑谷は轟の両手を握った。その体温に思わず視線を奪われる。熱い手だった。
目の前には緑谷の目があった。いつもきらきらと輝いている大きな瞳は、まどろみに蕩けていてすぐにでも眠ってしまいそうな目をしていた。
「おやすみ、轟くん」
ふにゃりとやわく頬を持ち上げながら、緑谷はその瞳を閉じた。
「みどりや、」
すきだ。その言葉は緑谷への愛しさと共に飲み込んだ。次に緑谷が起きたときに伝えればいいかと、心は自信に満ちていた。不思議な感情の正体を突き止めた轟に、恐れるものは何もなかったのだ。
あの夜の最後を迎えてからずっと、おやすみを言ったあとの緑谷のことを知りたいと思っていた。そう思っていたことにすら、轟はあの瞬間まで気付いていなかったのだ。
そして昔は、緑谷のおやすみを聞くのが少し嫌だった。置いていかれるような気がして、正直に言うなら心細くて。扉の向こうに消えていく、水気を帯びて少し落ち着いた緑の髪と、その小さな背中に未練がましく縋りたかった。一日の終わりにしか聞くことの出来なかったこの言葉が、今はこんなにも心地良い。
「おやすみ」
穏やかで優しい安堵感に包まれながら、轟は二度目の眠りについた。
(202190329:Title by 天文学)