夜が迫る。夕暮れの朱が、徐々に紫へと変わっていく。すれ違う人はみな揃って疲弊した顔をしている、そんな日曜日の終わりだった。
月曜日が来るのが憂鬱なのだろうか。それとも遊び疲れてしまったのだろうか。そんな風に他人を気にする緑谷の顔にも、一日の疲れが滲んでいた。
一日が短いのはいつものことだ。しかし、今日は特別短かった。理由は明白だ。轟と街に繰り出したからである。
今日一日、緑谷は寮から出て街を歩いていた。日用品を買いに行きたいのだという口実で轟を誘ったことを、緑谷は少しばかり悔いていた。買い物を口実にしてしまえば、それが終わりしだい寮に帰ることになるのは火を見るより明らかだったからだ。
申請した帰宅時間まではまだあるのだから、せめてもう少し長くいられないだろうかと、隣を歩く轟をちらりと見やる。このややこしい感情が空気にでも乗って伝わればいいと思ったが、そう上手くはいかなかった。
盗み見るようにした視線は、二色の瞳とかち合わない。運が良いのか悪いのか、轟は滅多に見ないスマートフォンを珍しく操作して顔を綻ばせていた。自分に向けられたものではない微笑みを見て、緑谷は自分のことのように嬉しくなった。
しかしそれどころではない。束の間の恋人ごっこは終わりを見せ始めているのだ。なぜ秋の日は短いのかと、太陽に八つ当たりしてしまうほど、緑谷はやはり悔いていた。
もう卒業も見えている年齢だというのに、どうしてこうも子どもっぽいのか。そんな自己嫌悪に陥ってしまう。(それが将来への不安から来るものだということに、緑谷はまだ気付いていなかった)
緑谷出久は、轟焦凍に恋をしている。轟も同じように、緑谷に恋をしていた。だが、それをはっきりと伝え合ったことはない。将来が確定するこの大事な時期に、相手を困らせるのはお互いに本意ではなかった。
卒業するまでこの気持ちは取っておこう。そんな、約束にも満たない話をしたのはいつのことだったか。無言を交わしたいつかの暑い季節は、知らぬ間に冬になろうとしている。
だが、気持ちに抑えがきかないのはお互い様であった。だから二人は今日みたいに、どちらからともなく誘って、どこかに出かけることがある。二人はそれを、少し冗談めかして「恋人ごっこ」と呼んでいた。高校生活が終わるまでの、免罪符のようなその言葉を言い訳に、緑谷と轟は学外でのみ恋人として振る舞った。
もちろん、気持ちの上でだけだ。好きだなんて言わないし、物理的な距離を縮めることもない。表面上はあくまで友人の関係を保っていた。
だから緑谷は、夜が来てほしくなかったのだ。そしてあわよくば、轟も同じ気持ちでいてくれたらと思っている。終わりが近づけば近づくほど、この二十四時間にも満たない「恋人ごっこ」を、ずっと続けていたいといつも思うのだった。
轟に聞こえないように、緑谷は小さく小さくため息を吐いた。足取りは重い。
「大丈夫か?」
そんな緑谷の様子を敏感に察知したのか。緑谷の隣を歩いていた轟が、足を止めて緑谷の顔を覗き込んだ。
「あはは……さすがにちょっと疲れた、かも」
緑谷も反射的に立ち止まったが、驚いたのはその距離だった。こうも目の前に突然来られると、心の準備も出来ない。
少し本音を零しつつ、緑谷は苦笑気味に返事をする。轟はそんな緑谷を見て、そのまま視線をさらに下へと移した。
「それ」
轟は緑谷が持つ買い物袋を指さした。「これ?」と緑谷が袋を持ち上げると、轟はその袋を掴んで、彼にしては少々強引にそれを手元に寄せた。
「俺が持つ」
ワンテンポ遅れてやってきた優しさの表明を受けて、緑谷は素直に手を離した。
しばらく歩けば、そこはもう雄英高校だった。ここまでくれば、寮に着くまでそれほど時間はかからない。寮の扉を開ければ、二人の恋人ごっこは終わりだ。
「ありがとう轟くん」
手を差し出すと、袋が返された。緑谷が抱いている気分と同じくらい重いそれは、騒がしくて安っぽい音を鳴らしながら緑谷の元へと渡った。
「ちょっと待ってくれ」
先に寮へ入ろうと、扉に手を掛けた緑谷を轟の声が引き留めた。どこか余裕のない声色に、緑谷の心臓が何かを期待した。
振り返ると、やはり轟は余裕のなさそうな表情をしていた。なにかを堪えているような、彼のか細い呼吸音がやけに大きく聞こえる気がする。
決意の証のように、彼がその拳を、一瞬だけ固く握った姿を緑谷は見逃さなかった。一歩一歩、惜しむようにゆっくりと近づく轟は、なにを言うでもなくただ真剣な表情をしていた。
轟が、緑谷の小さなパーソナルスペースを僅かに冒す。見えない境界線を越えて、その左手が緑谷の前髪をそっと持ち上げた。
あらわになった額に、落とされたのは軽いキスだった。熱を感じることも出来ないほど僅かな時間だけ触れたそれは、余韻も残さず離される。
「愛してる」
消え入りそうな声で囁かれた、その言葉だけを残して、轟は緑谷を追い抜いた。
(20190506)