白銀の瓦礫の上に立っている - 2/3

 
 
「海へ行こうよ」
 緑谷の誘いに頷いた轟は、彼に連れられて今、閑散としたバスに揺られていた。
 古く劣化したアスファルトの上を走るバスはよく揺れた。雄英周辺のバスに乗った時とは比べ物にならない。道の舗装の重要さを少し考えたが、心地の良い揺れのせいですぐに忘れた。
 背の低い家が多く、背の高い木が生えた山が目立つ。轟の家も似たような造りをしていたが、この辺りにある家よりはずっと広かった。しかし、実家に似た構造の建物の集団を見ることは滅多にない。その光景に、轟は当初の目的を忘れて夢中になった。
 バスは木々の影の中を進んでいる。ゆっくりと、次の目的地を目指している。陸の果て、海まではまだ遠い。
事の発端は昨日の朝だ。轟の部屋が唐突にノックされたかと思えば、すぐにドアノブがガチャりと動いた。その音で初めて、寝起きの轟は昨晩鍵をかけ忘れたことに気づいた。開けた本人も鍵が掛かっていないとは思ってもいなかったのだろう。驚いた顔をした緑谷と、轟は目が合った。
 彼を部屋に招き入れて、寝ていた布団を片付ける。座って待ってろと、普段使っている座布団を緑谷に渡して轟は部屋を出た。顔を洗うためだ。
 ばしゃり。周囲に人がいないのを良いことに、轟は手のひらに貯めた水道水を適当に顔へと投げつけた。冷たい水の温度のせいか、頭のかすみが少し晴れる。持ってきていたタオルで顔と髪の毛先を拭くと、目の前の鏡にはいつものように轟の顔が映った。
 鏡の中にいる己の顔への手を伸ばす。火傷の痕へひたりと触れても、硬くて透明な壁があるだけだった。髪の色も火傷の位置も正反対で、つまるところ鏡の中の自分は、どう足掻いても偽物でしかないのだと思い知る。
 悪い意味では捉えていない、というよりは、意味を変えられたと言うべきか。そんな出来事が春にあった。その日から轟は、自身の憎悪が身を焼く感覚を忘れた。
 ばしゃり。もう一度顔を洗ってから、轟は緑谷の待つ部屋へと戻った。
 戻ってきた轟のことを見てなにを察したのか。他愛のない会話を数回だけ交わしたのちに、それまでの快活な口調から一転、落ち着いた声で緑谷はこう言った。
「海へ行こうよ」と。
 緑谷の誘いに、轟は素直に頷いた。なら明日に。そう返事をするのに思考はいらなかった。
 そして今、夏の太陽と緑の木々が作った影の下にいる。
 ちか、と葉の隙間から降った日光が轟の目を焼いた。轟はそれを弱く睨みつけて、そして自身のその行動に驚いた。鋭い光が少し憎いと思ったのだ。何にも興味がなかった轟が、何かに対して感情を抱いたことは、驚くべき変化だった。
 憎むべき対象はいつも近くに、そして己の中にいた。鏡の中の自分が持っているわけではない。思い返せば、やっと二つ目の手で数えようかと思う年の頃からずっと、轟はそれと共に生きてきた。
 それこそ、少し前の頃なら彼も年相応のわんぱくさを持っていたのだが。轟はとっくの昔にその思考を捨ててしまっていた。植え込みの中に潜り込んでみたい、頂点の見えない大木に登ってみたい。そんな冒険心だって、かつての轟は持っていたのはずだ。
 探検ごっこがしたい。ボール遊びがしたい。とにかく兄弟と一緒に遊びたい。そういった子どもらしいわがままを抱えていたこともある。けれどそれも、一瞬の出来事だった。
 憎悪を飼い慣らすことなんて出来はしない。そんなことは轟にも分かっていた。だからせめて、そのどす黒い感情に飲み込まれることのないようにしよう。そんな過程を経て、甘っちょろいワガママは真っ先にふるい落とすべき対象となった。
 そうした結果、轟は何も知らない人間になっていた。いや、少々語弊はある。さらに正確に述べるなら「目的のために必要なもの以外を削ぎ落とした状態」であった。
 季節の移ろいにも興味がなく、天候にすら興味がなかった。季節も天候も、轟が持つ父への憎悪には塵ほども影響を及ぼさない。夏の暑さも冬の寒さも、轟の前では全て等しく同じものだった。復讐には必要なかったからだ。
 それが、今やどうなっている。
 こんなに暑い夏は初めてだ。今日の天気予報まで見てしまった。了承の返事をしたものの、雨だったら困る。そう思った故の行動だった。こんなことは、何度も言うが初めてだったのだ。
「人って、案外簡単に変わるもんだな」
 まるで他人事のようにそう言って、轟は視界の左側に入り込んだ赤色の髪越しに世界を見た。あんなに恨んでいた赤を見ても、世界は綺麗なままだった。
 そして轟は緑谷の方を見た。バスの揺れに合わせて、緑谷も左右に揺れていた。瞼を降ろして、小さく口を開いて……よく見ると眠っていた。
 自分のいない、反対側へ倒れてしまわないように(人は座っていないので、倒れてしまっても迷惑を掛けることはないが、まあそういう口実だったのだ)轟は右手で緑谷の左脇腹付近の服を軽く摘んだ。
 無防備な寝顔は、春に対峙した気迫溢れる形相とはなかなか重ならなかった。真剣同様の鋭さを持っていたあの時の眼差しは、瞼に隠されて伺えない。
 けれどあの時投げつけられた緑谷の熱意は、轟の心を十年間ずっと燃やし続けていた、美しくはない炎の熱を上回っていた。そういう意味では、轟の足場となっている、薄ら氷を徐々に溶かしたのは緑谷なのだろう。
 今までの苦しみが、全部緑谷出久に出会うために必要なものだったのだと言われれば轟は素直に納得してしまいそうだった。だって、きっとこんな人生でなければ緑谷と出会うこともなかったはずなのだ。
「……!」
 ガタン、と大きくバスが揺れた。
 轟は緑谷の服を思い切り引っ張った。緑谷が席から転がり落ちてしまうと思ったのだ。
 けれど緑谷は緑谷で、今の衝撃で目を覚ましていた。いらない心配だったかと轟は手を離す。名残惜しさが指先に残った。
「轟くん!」
 緑谷は、轟のそれにきっと気づいていなかった。彼の視線は一直線に、窓の外へと向けられていたのである。
「見て、青い空だ!」
 その声が耳に届くよりも前に、轟はその双眸を輝かせた。鬱蒼とした木々の影を抜けた先の景色が、轟の想像を良い意味で裏切ったのだ。
 陽の光を目一杯取り込んで、一面の青を見る。海も、空も、全てが等しく青かった。みなもが不揃いに輝くことを、轟は初めて知った。空と海の青の違いを正しく理解していなかったのだと考える。科学的な意味ではない。もっと深いところでの違いだ。それこそ、答えは己の中にしかない。
 その答えを導き出すために、もっとたくさんのことを知りたいと思った。今まで不要だと切り捨ててきたどうでもよかったことや、くだらないことを知りたい。子どもの頃に失くした冒険心が蘇ってくるようだった。それは別に、全然、恥なんかじゃない。
 轟はくすりと笑って「緑谷、ちょっと恥ずかしいぞ」と言った。乗客の少ないバスだが、向かい合った座席のせいで全員の視線が二人に注がれていた。微笑ましそうに見つめられては、謝るのもなんだかおかしい気がしてしまう。結局何も言わずに、二人は元の無言に戻った。照れくさそうな緑谷の表情だけは戻らなかった。
 乗っていたバスは、二人を残して次の場所へと向かう。聞き慣れているはずのエンジン音も、のどかな地では細部まで聞き取れた。何度音の波を繰り返しただとか、そんなことをだ。
 青い海はもう目の前に見えている。水平線で、青と青が混ざっている。ここから少し坂道を下らなければいけないが、砂浜にいる人の数が読み取れるくらいの短い距離だ。けれど、ここから先に進むことが突然恐ろしくなってしまった。
 海を目の当たりにすれば、自身が持つちっぽけな世界が酷く惨めになりそうだったのだ。もうほとんど溶かし尽くされた轟の世界だが、まだそれを手放したくなかった。
 もだもだと二の足を踏む。バス停で立ち止まったままでいると、轟の隣に立っていた緑谷が話し始めた。
「海、僕は好きだよ」
「家の近くにも海があるんだ。雄英を目指してたときは海で特訓してさ」
「雄英、目指せると思ってなかったから。特訓自体は嫌じゃなかったけど。でもやっぱちょっとは嫌な時もあって……。でも誰にも言えなかったから、海に向かって愚痴ったりしたんだよね」
 思慮深い緑谷にしては珍しく、轟が声を挟む余地すらなかった。海辺に向かってゆっくりと坂道を下っていく緑谷を、轟は眺める。
「海を見ると、世界は広いなって思わない?」
 それまでの言葉を大きく区切って、緑谷が振り返った。
 同意を求められているわけではないだろう。轟がそんなことないと否定すれば、おそらく彼もそれを否定しない。緑谷はそんな人間だった。けれどこの問いは、肯定とか否定とかいう単純な領域のものではない。轟はそう思った。
 緑谷の言葉を聞き終えてから、改めて海を見る。両の眼で見た遠くの海は、轟の世界をちっとも馬鹿にはしなかった。
 真夏の太陽にジリジリと焦がされていたが、その時ばかりは体温調節をやめた。何者でもない、ただの轟焦凍でいたかった。
 一筋、汗が首元を伝う。あまり経験したことのない感触を、その皮膚は鋭敏に拾った。
 そして轟は思い出した。あの春にあった大きな歓声の中で、自身はとっくに小さな世界を飛び出していたことを思い出した。連れ出したのは、前を歩く緑谷だ。
 だから轟はこう返した。
「世界は、とても広いな」
 轟がそっと笑うと、緑谷もにっこりと笑った。