カウントnと秒読みの数値

 
 

 カーテンの隙間から朝日がこぼれ落ちている。それに気づいたのは緑谷だった。
 瞼の中で眠っていた眼球が意識を取り戻す。眉間にしわを寄せつつ、その瞼を左手で擦った。寝起きだからか、腕も暖かい。だが、そんなことで緑谷の眠気が完全に飛ぶことはなかった。
 むくりと上半身を起こして、左側を見る。同時に右手をそのスペースへ伸ばしたが、虚しく空を切った。緑谷はそこで、今度こそ目を覚ましたのである。
「あ、そっか。轟くん、今日はいないんだっけ」
 独り言を呟く。起き抜けの脳みそに細く突き刺すように言った。このところ数日続けて轟が自宅に泊まっていたため、緑谷はベッドに出来た空白に、なんとも言えない喪失感を覚えていた。男二人で眠るには狭いベッドが、きちんと定員数で使用されただけのことであるのにも関わらず、だ。
 ……そういえば、いつも触れる肌の感触がなかったな。
 緑谷は昨晩眠りに落ちる前の感想を思い出した。塩ひとつまみ分くらいを水に溶かしたような、しょっぱい寂しさを飲み込みながら眠ったのだ。
 かといって落ち込むようなこともない。これは恋人と数日間ともに過ごした嬉しさや楽しさが、いつもの日常に戻ったからだ。その差を寂しく感じているだけで、緑谷の生活指数がマイナスに傾くことはないのである。昨晩は仕事の疲れから早々に眠ってしまったが、今日は休みだ。存分に休暇を堪能しようと思い、彼は寝起きにしては俊敏にベッドから抜け出た。
 裸足の足音をフローリングで鳴らす。絨毯の上とはまた違う、床と皮膚がくっつく感覚に夏が近づいている予感を察知した。
 テーブルの上には、昨晩から置き去りにされているガラスのコップがあった。底の方で、コーヒーが淵に寄ってシミを作っている。二つ向かい合って並んだそれを見て、緑谷は昨日のやり取りを思い出した。
 帰り際。轟が「やっぱ洗って帰る」と言って一度履いた靴を脱ごうとしたところを「ちゃんと洗うから!」と言って押し返したことを思い出したのだ。
「ぜってー忘れる、賭けてもいい」
「そんなことに賭けなくていいよ!」
「忘れてたら明日は俺の行きたいとこに付き合ってくれ」
「忘れなくても付き合うから、ほら、もう今日は帰るんだろ! 靴履いて!」
「俺は子どもじゃねえ……」
 案の定、轟が心配した通りしっかりと洗い忘れている。緑谷は一瞬だけ現実から目を逸らして、そしてすぐに戻ってきてその二つのコップをシンクへ運んだ。まさか食器洗いが休日最初の行動になるなんて、と肩を落とす。
 キュッと清々しい音を聞いて、泡だらけのコップをすすいだ。緑谷の家の中で、唯一同じものが二つあるのがこれだった。良く家に来る轟のために、後から買い足したものだ。
 轟が緑谷の家を尋ねることは、全くもって不自然ではない。恋人同士が、互いの自宅の扉をノックすることが不自然であると言うなら、何が自然で普通だというのか問い詰めたいところだ。
 最初のうちは数ヶ月に一度、数時間だけ来ていたはずなのに、今や轟は、ほぼ緑谷の家に入り浸りである。一人で暮らす緑谷の家を頻繁に訪れては、何かひとつ、自分の物を残して帰っていく。そんなところまで馴染んでしまった。
 轟が物を置いて帰るようになったのは、泊まることが増えてからだった。初めの頃は歯ブラシだとか愛用のシャンプーだとか、パジャマ代わりのスウェットを一枚ずつだとか、何度も使うような物を置いて帰っていたのだが、揃えきってしまったのか最近は必需品以外のものを置いていくのだ。おかげで緑谷の家の中の物は、おおよそ半分が轟の物で埋まっている。
「それって同棲だよね」と言ったのはどこの誰だったか。まだ同棲じゃない! と強く言えなかったことだけは覚えている。冷静に考えると、これはほぼ同棲と言って差し支えないのではなかろうか。一度それが頭をよぎると、それしか考えられなくなった。
 ウンウン唸りながら、緑谷は洗い終わった二つ目のコップを軽く拭いて、そこにお茶を入れた。テーブルに戻り、冷蔵から出した晩ご飯の残りを、白米と一緒につまみながら朝食を摂る。話し相手がいない朝食は数日ぶりだ。箸と皿が触れる音の欠片を耳で拾って紛らわせていたが、無音に耐えられなかったため結局テレビをつけることにした。
 適当にニュース番組をはしごしているうちに、茶碗が空になる。本日二度目のシンクと対面して食器を洗った。水の冷たさが骨身に染みたが、夏を目前にした今はそれが少し心地よくもあった。今日の予定を考える余裕まで持てる。
 まずは服を着替えないと。顔を洗って、寝癖も直そう。冷蔵庫の中身も買い足した方がいいかもしれない。そういえば轟くん、シャンプーが無くなりそうって言ってたな。
 独り言をぶつぶつと呟きながら、緑谷はてきぱきと支度を済ませた。もうすぐ午前の九時になる頃合いだ。
 彼はどこに行きたいと言うのだろうか。食器の洗い忘れは隠すつもりだが、忘れたことは事実なので轟が行きたいところについて行こうと思った。それに、せっかく二人揃っての休日なのだから楽しく過ごしたい。日用品の買い物は、最後に付き合ってもらえばいいか。とかなんとか。轟が来たらなんて話し掛けようかと考えて、緑谷の表情も緩む。
 直後になったチャイムに、弾かれるようにして立ち上がった。フローリングの上を、靴下で包まれた足音がぱたぱたと駆ける。小さなレンズから相手を確認して、緑谷は思わずにっこりと笑った。玄関ドアを開ける手にも力がこもる。向こう側にいる彼に当たらないように、高ぶる気持ちを抑えながらゆっくりとドアを開けた。
「おはよう、轟くん!」
 今日も、轟は緑谷の家にやってくる。

 
 

(20190613)