まだ始まりの朝は来ない

 

 

「ソロモン」
 ちらり、ちらりと忙しない、様子をうかがうような視線に向けてバルバトスは言った。その声に、ソロモンの肩が軽く跳ねる。しきりにバルバトスだけを気にしていた瞳を今度は四方へ彷徨わせ、ソロモンはバルバトスから視線を逸らした。
 バルバトスは、できたての熱いミルクをかき混ぜながら小さくため息を吐いた。
「ソロモン。今回ばかりは、君が話してくれるまで俺は何も聞かないよ」
 それは優しい笑みだった。咎めも責めもしない声色に、ソロモンの心臓が高鳴る。この現象は、初めてだ。突然のバルバトスの言葉に、あ、やら、う、やら言葉にならない声がソロモンの喉元で引っかかった。
 ティースプーンがマグに触れている。一周、二周。等間隔で鳴る、その音を全て丁寧に拾ってしまう。三周目の音が鳴るまで、バルバトスは白い水面を見つめていた。
「寂しく、なったんだ」
 四度目の音は途切れて終わった。
 下手くそな切り出し方で、ソロモンは口を開いた。ふわりと香ったはちみつの香りも、優しさを溶かしたような温かいミルクの香りも、全て取り込んで声に変える。
 拭われた頬に、涙の跡は無い。ソロモンの寂しさを示すものは、今この場においては彼の言葉以外に存在しない。だがバルバトスは、ソロモンの中で燻り続けているその感情を確かに感じ取っていた。
「ここで終わり、じゃないのは分かってる。けど、全部終わったら……こんな風に、一人で、」
「一人で眠るのは、怖いかい?」
「そ、れは」
 下を向いて、ソロモンは口を閉ざしてしまった。忙しなかったその視線は、黒い木床の一点に落とされている。
 バルバトスは、出来上がったホットミルクからティースプーンを抜いて何も言わず彼に差し出した。名残惜しそうにスプーンから落ちた雫が、小さな白い世界に波紋を作っている。顔が映るわけでもないのに、ソロモンはその白を見つめ続けた。
 投げた言葉に、答えてはもらえないだろうとバルバトスは思っていた。独りが怖いと素直に言えるほど、彼は子どもではない。だが、それを胸にしまっておけるほど大人でもない。それが彼だ。そんな彼が置かれた、不安定な足場を支えてやるのが己の役目だとバルバトスは自覚していた。
 簡単には想像出来ない未来が、恐ろしくないわけがない。どんな形であれ、いつか訪れる最後から逃げたくなるときもあるだろう。長い年月を経て、その感情たちとの折り合いをつけてきたバルバトスにとって、ソロモンの心境は想像に難くない。
「温かいだろう、それ」
「あ、……うん……」
「体が冷えると、眠れるものも眠れなくなる。冷めないうちに飲むといい」
「そ、う、だな」
「飲み終わったら、今夜は一緒に寝ようか」
「えっ!?」
「え? そんなに驚くことだったかな」
「あっ、いや、違う!」
「ふふっ、何が違うんだよソロモン」
「違う、違うんだって!」
 顔を真っ赤にして慌てふためくソロモンを見て、バルバトスはくすくすと笑った。少し子ども扱いしすぎただろうか、と思ったがどうやら杞憂に終わったらしい。
「恥ずかしいから忘れてくれ……」
 からかおうと近づいたバルバトスを、ソロモンは顔を覆って軽く押し返した。そこでバルバトスは、ふと己の中に何かが生まれたことに気づいた。
 そうだ。彼はやはり子どもで、こんなにもかわいらしいヴィータではないか。己の言葉ひとつで様々な感情を見せてくれる「彼」のことが愛おしくてたまらなくなっている自らの感情に気づいたのだ。
 ヴィータのことは好きだ。だが、それとは違う何かがある。ヴィータという大きなくくりだからではない。ソロモン王という絶対不動の存在だからでもない。
 彼だからだ。他の誰でもない彼の、彼らしい心を守りたかった。だから、彼が自身の部屋を訪ね、自身のことを頼りにしてくれたことが嬉しかったのだ。
「バルバトス……?」
 一度それに気づいてしまうと、赤くなる顔を止めることは出来なかった。からかいのために続くはずだった言葉たちは全て逃げ出して、冷静さは徐々に欠けていく。
 突然話さなくなったバルバトスが気になったのか、ソロモンは指の隙間からバルバトスの方を見ていた。
 瞳を見てはいけない。戻れなくなる。そう言い聞かせて、並んだ指輪に意識を逸らす。この感情が伴う事象の名前を、バルバトスが知らないわけがない。
 しかしバルバトスは、その名前に上から別のラベルを貼り付けた。これはただの庇護欲だ。メギドより弱い存在であるヴィータへの庇護欲なのだと、半ば無理矢理書き換える。バルバトスの視線を吸い込んだソロモンの瞳が純に満ちていたのを見て、ソロモンにこれを知られるわけにはいかないと思ったのだ。
 んん、とひとつ、わざとらしく咳払いをしてバルバトスは言った。
「……ミルクが冷めてしまったみたいだから、もう一度温めようか」
「あ、ごめん! ……ありがとうバルバトス」
 冷めたマグを受け取る。一瞬触れたソロモンの指先がやけどしそうなほど熱くなっていたことに、バルバトスは気づけなかった。己の指先も、同じくらい熱かったのだ。

 

 

 

(20191015)