ひとつだけ聞いてほしい

 

 

「バルバトス、体調が悪いなら言ってくれ」
 ソロモンが俺にそう言ったのは、いつものように宿屋に泊まったときだった。
 部屋割りを聞いて、二階に上がろうとした俺をソロモンが引き留めた。他の皆は、俺たちを残して先に上に上がったみたいだ。ここ最近、一人部屋にしてくれと言い続けていたのが不自然だったのかもしれない。
(気付かれたか?)
 彼は察しのいい子だ。それでも俺は俺の身に起こっている真実を伝えるわけにはいかなかった。俺は驚きを隠しつつも、普段と変わりない態度でソロモンに答えた。
「ありがとうソロモン。けど、体調が悪いわけじゃないよ」
「いやでも……最近眠ってばかりじゃないか。街に着くとすぐに眠ってるだろ」
「確かに、キミの言う通りだな。実際、今も眠気は感じてる。疲れはたまっているのかもしれないね」
「やっぱり少し休んだ方がいいと思う。今回は急ぎの仕事でもないし、俺、みんなに伝えてくるよ」
「それは必要ない!」
 少し強く言いすぎたようで、ソロモンの肩がびくりと跳ねた。
「驚かせてすまない。でも眠りさえすれば、昼間の行動に支障は出てないからね。それに、今は順調に進んでいても、これからもそう上手く進む保証はないだろ。早めに終わればそのあと休むさ。だから俺のためだけに日程を遅らせる必要はないんだ、ソロモン」
 言い聞かせるように、にこりと笑って話した。少し早口になってしまったかもしれないと反省する。眠気はかなり強い。ここがベッドの上だったなら、すぐにでも眠ってしまえるくらいだ。
 ソロモンは、あまり納得のいっていなさそうな表情だったが渋々引き下がってくれた。
「……わかった。バルバトスがそう言うなら。でも、何かあったらすぐに教えてほしい。みんな、心配してるから」
「ソロモンは?」
「心配に決まってるだろ! ……心配じゃないわけがないよ」
「それは嬉しいね。恋人に心配してもらえるなんて、俺は幸せ者だ」
「からかってるつもりなら怒るぞ」
「ごめんごめん。嬉しいのは本当だよ」
 はは、と笑うと、ソロモンは安心したような表情でブツブツと文句を言っていた。その様子が今日はとても愛おしく見える。仲間と――特にソロモンと過ごす時間もあと少しかと思うと、彼の表情や仕草のひとつひとつがひどく貴重なもののように感じるのだ。
 俺は、ソロモンにひとつ頼みごとをした。
「そうだソロモン。今夜、一緒に眠ってくれるかい」
「えっ、あ、うん。俺でよければ」
「キミがいいんだよソロモン。キミと一緒なら、良い夢が見られる気がするんだ」
 終わりは近い。これは避けられない事実だ。だからさいごに、これくらい望んでもいいだろう。夢を与える吟遊詩人にだって、夢はある。
「なんか、面と向かって言われると、照れるな……」
「照れる必要なんてあるものか。キミは俺の恋人なんだからさ」
「まだやることがあるんだろう? 俺は先に部屋に行っておくから、眠っていても勝手に入ってきてくれ。」
「わかった。でも、ムリに起きてなくてもいいから」
「もちろん。明日のためにムリはしないよ」
 その言葉を最後に、俺は一足先に部屋に上がったが、案の定と言うべきかソロモンが来る前に眠ってしまっていた。

 目を覚ましたのは、ソロモンのひどく焦った呼び声を聞いたからだった。
「バルバトス、バルバトス!」
「ああ、ソロモンか。すまない、寝てしまってたみたいだ」
 ゆっくりと起き上がり、ベッドサイドに腰掛ける。ああ服も着替えずに眠るなんて。
 せめて服は着替えようと、ベストに手を伸ばした。相変わらずまぶたは重いし、全身じっとりと汗をかいている。どうやら俺は、またうなされていたみたいだ。
 水分を奪われて、喉は乾燥していた。吟遊詩人の商売道具なのに、ここまで雑に扱ってしまったのは初めてだ。終わりを前にして自棄になっているのだろうか。いや、今はそんなこと、少したりとも考えたくない。
「バルバトス、これ」
「……! ――ありがとうソロモン」
 ソロモンから絞られたタオルを受け取って、首から順に上半身を拭いていく。その冷たさに、やっと少しだけ目が覚めた。
「いつもうなされてるのか……?」
「どうしてそう思ったのかな」
 俺の隣に座ったソロモンが、おそるおそるといった風に口を開いた。
「さっき一階で話した時さ、『良い夢が見られる気がする』って言ってただろ。それが少し引っかかってて。いつものバルバトスの言葉にしては、なんか言葉が険しいなと思ってたんだ。だからうなされてるバルバトスを見た時、咄嗟に起こさなきゃと思った。いつもあんなに苦しんでるなら、疲れが取れるわけないよな」
「バレバレだったか。俺もまだまだだな」
「いや……嘘も隠し事もやめてほしいんだけど……」
「ははは! ごもっともだね」
「笑いごとじゃないだろ!」
 そうは言いつつも、ソロモンだって笑ってるじゃないか。そう言うと、ソロモンは反論出来なくなったのか、軽く唸っていた。そんなソロモンを見るのが好きで、俺はつい、また彼をからかってしまう。
 ひとしきりソロモンで遊んだら「もう寝るぞ!」と半ば強引に笑いを断ち切られた。俺は素直に彼の言うことを聞いて、ソロモンと一緒にベッドに入る。ずっと照れっぱなしのソロモンのことを、俺はやっぱり愛おしいと思った。
 ふと、頭に言葉が浮かんだ。ソロモンに聞いてみたい言葉だ。ソロモンの眉間に寄った皺を指で押し解しながら、俺はその言葉をそのままソロモンに投げかけた。
「ソロモン、俺は美しいかい」
「……最近のバルバトスは、変なことばかり聞くな」
「ごめんごめん。でも、教えてくれよ」
 キミの口から聞きたいんだ。
 ダメ押しのようにそういうと、ソロモンはまた照れくさそうに視線を逸らした。
「バルバトスは、きれいだよ。心まで全部きれいだと思う」
「でも俺は、バルバトスがきれいだから好きなんじゃなくて……その……好きだからきれいに見えるところも、あると思うんだ」
「ひどいことを言うなぁソロモンは」
「ち、違う。そういう意味じゃなくて、ええと、」
「知ってるよ。いい機会だ、詳しく教えてほしいな」
「それは、いいけど……寝なくて大丈夫なのか?」
「ああ。今日はまだ、あと少しだけ起きていられそうだ」
 ごめんソロモン。俺は胸の中で静かに謝った。起きていられるなんてほとんど嘘のようなものだ。気を抜けばいつ意識を無くしてもおかしくない。けれど、もうこうやって話せる機会もないかもしれないと思うと、今ここで眠ってしまうわけにはいかなかった。
「バルバトスに限ってそんなことはなさそうなんだけどさ。きれいだから好きなら、もしバルバトスがきれいじゃなくなったら、俺はバルバトスのことが好きじゃなくなるってことだろ。でも俺は……そうだな、例えばバルバトスがおじいさんみたいな見た目になっても、バルバトスのことが好きだよ。バルバトスの見た目はとてもきれいだと思う。けど俺が好きなのは、けっこう真面目で、頭が良くて、色んなことに気がついて助けてくれる、俺たちだけが知ってるバルバトスなんだ」
 ソロモンが、俺の美しい髪を掬いあげた。そんなこと、教えた覚えはないんだけどな。そう言いたかったけれど、うまく言葉にならなかった。
「それから、こうやって俺を頼ってくれるところも好きだよ。バルバトスはいつも、情けない姿だとかみっともないところだとか言うけど、そういうのって、俺しか知らないだろ」
 なんだか泣いてしまいそうで、でもそれをソロモンに見せることだけは絶対にしたくない。複雑な感情が渦巻いている。
「ソロモン」
俺はソロモンにキスをした。
「なっ、ば、バルバトス!?」
「なんだ、あんなに大胆なことは言えるのにキスはダメなのかい」
「そうじゃ、そうじゃなくて……!」
 俺からしたかったのに、とソロモンがぼそりと呟いた。俺が疲れているから遠慮していたらしい。やっぱり、俺がこの世界で一番愛おしいと思うのは彼だ。
「駆け引きっていうのは難しいものだよ。キミもまだまだ子どもだなぁ」
「……子どもで悪かったよ」
「拗ねない拗ねない」
「良いんだよ、俺は子どもなんだから」
「はいはい、わかったよ。もうそろそろ寝ようか」
「……わかった」
 手を差し出すと、ソロモンが俺のその手を握った。随分と色の違う、温かい手だ。不思議と、心の嵐が凪いでいく。張っていた気が緩んでいく。
「バルバトス?」
 ソロモンが俺の名を呼ぶ。それを聞くことは出来たが、眠りに落ちきってしまっていた俺は、返事をすることが出来なかった。

 * * *

 心残りはあるが、今となってはもうどうしようもない。けれど、ソロモンを置いていくことだけが気掛かりだ。きちんと伝えれば、理解できない子じゃない。俺がもうすぐ死ぬことも、本当はもっと早くに伝えるべきだったのかもしれない。でもそんなことをすれば、優しいあの子のことだから、なんとかしようと必死になって動いてくれるだろう。そしてそれは、きっと今からでも遅くはない。
 悩まなかったと言えば嘘になる。だが、ソロモンにだけは俺の今の姿を見せたくない。肌は乾ききっていて、その上シワだらけだ。これじゃあ、手を重ねて色の違いを笑いあうことも出来ない。ソロモンが好きだと言ったこの髪は、すっかり艶をなくしている。きっとこれが、俺の年齢でいうところの本来の姿なのだろう。
 きっと今夜が山だ。衰えて動きにくくなった足を引き摺って、誰にも見つからないように草陰を進む。たどり着いた小屋の戸を引くと、思ったとおり、鍵はどこにもついていなかった。
 転生メギドでも死体は残るだろう。この村の者には悪いけど、俺はここで眠らせてもらおう。この姿なら「吟遊詩人のバルバトス」だとは誰も気づくまい。腹を空かせた老人が食べ物目当てに忍び込んで亡くなったと思われて、それまでだろう。実際、そういう例は少なくない。死体は雑に扱われて終わりだろうけど、確実に何らかの処理はしてもらえるはずだ。幻獣に食い荒らされるよりはずっと良い。
 村は静かだった。そこから離れたこの小屋に、誰かが来ることはもう無い。穏やかで、そこだけを見れば俺にとってぴったりの幕引きだ。ゆっくりと思い出していた嵐の記憶も、徐々に止んでいく。
「ここは暗くて、冷たいな」
 砂だらけの地面は冷たかった。砂利の上に投げ出された手のひらを見つめて、あの夜に感じていた温もりを思い出す。
 俺の物語にふさわしい最期ではない。でも、もう本当にどうしようもないから。俺の最期はこれでいい。結末が白紙の物語が、世に存在しないなんてこともないし。俺の話を聞いて、そしてそれを覚えてくれていた人たちが次の誰かにその話を伝えてくれるだけで、俺は生きていたって言えるはずだ。物語たちが生きるなら「吟遊詩人のバルバトス」自身の物語が失われることも怖くない。
 ――――遠くから微かに足音が聞こえた。

 
 

(20191214)
(20200412:タイトル追加)