黄色のとばり[前]

 

 

 結局、一人で食事と向き合う機会は片手で事足りる回数になってしまった。それが良いことなのか、悪いことなのかを分別する決断は、まだ出来ていない。ただあの時、流れた涙を一緒に飲み込んでしまっても食事の味は変わらなかったし、手を引かれるままに座った焚き火の前が、ちょうど良い暖かさだったことは良く覚えている。それまで歩き通しだった足は疲労のせいでひどく震えていて、こういうとき、自警団に所属していたアイツなら疲れの一つも感じずに野営をこなせたのだろうかと、その時はたしか、村で一番の元気に満ちていた友人の顔を思い出していた。結局、彼の最期の姿を認めることは叶わなかったのだが、まだ、彼のことは忘れていない。

 

     ――――――

 

 血の匂いが漂う村で、ソロモンが彼の死に顔を見ることはついぞなかった。今日、美味しい魚が捕れたら分けてやるよと言っていた釣りの上手い友人にも、まだ会えていない。早朝から出かけているはずだから、そろそろ下処理をして持ってきてくれるはずだった。でないと腐って食べられなくなってしまう。最初にそう言ったのはアイツなのに。
 だから、まだきっと、生きているに違いない。そう思っていたのだ。なにかと逃げ足の速かったもう一人の友人も見かけていないから、二人で逃げたのだ。そうだ、きっとそうだ。助かった人だっているに決まっている。村に戻れば、逃げ延びた誰かが戻ってきているかもしれなかった。
 ソロモンは、膝を抱えて明日のことを考えた。明日は畑の仕事を手伝ってくれと言われていたはずだ。午後からは、倉庫の整理をするから男手を集めてほしいと頼まれていたっけ。畑当番が同じアイツは逃げるだろうから引っ張っていくとして、他はどうしようか。自警団の訓練が終わったアイツを呼ぶのは可哀想な気もする。近隣の村へ野菜を渡しに行くのは三日後だって言っていた皆がまだ村に残っているし、明日は無理に連れて行かなくてもいいかもしれない。一応、声だけ掛けておこう。仲間外れにすると、それはそれでうるさいんだ、アイツ。
 そうと決まればそろそろ寝ないと。そう思ってごろりと横になったとき、そこが床でも布でもなく冷たい砂利の上で、頭を支えたのが枕ではなく木の根であることに気付く。
 一気に現実に引き戻された気がした。日が昇って、村に戻ったって、おかえりを言ってくれる人はもういない。その事実を受け止めようとすればするほど、憎悪と後悔の混ざり合った気持ち悪さが、胸の底からこみ上げてくる。
「大丈夫かい、ソロモン」
 すぐに体を起こしたのが不思議だったのか、火の番をしていたメギドが話しかけてきた。ヴァイガルドで有名な神話の仲の存在だ。到底信じられなかったが、あんな力と姿を見た後では、信じるしかない。
「……バルバトス、だったよな。なにか用か? そうだ、さっきは怒鳴って悪かったよ。でも悪いけど、まだ話を聞く気分にはなれないから、俺のことはしばらく放っておいてくれないかな」
 昼間に、おそらく励まそうとしてくれていた彼を無下にして突っぱねてしまったことを詫びる。混乱していたとはいえ、ずいぶん酷い態度を取ってしまったと、ソロモンは反省していた。
「昼のことなら気にしてないさ」と笑うバルバトスに、ソロモンは胸をなで下ろす。
「そんなに青い顔をしているのに、放ってはおけないな。水でも用意してこよう」
 少しその場を離れたバルバトスは、水の入った容器を持ってすぐにソロモンのところに戻ってきた。そのまま隣に座ったバルバトスから水を受け取り、ソロモンはひとくち水を飲む。突き放すような冷たさをまとう地面とは違い、なにもかもを洗い流してくれるような清涼感が喉をすべりおちた。
「飲み終わったら、少し火の番を代わってもらえるかな」
「いいけど、俺、あまり野営をしたことがないよ」
「問題無いさ。すぐに戻ってくるだけだ」
「どこか行くのか?」
「近くに川があるのは、キミも知っているかな」
「ああ。水がきれいで美味しいよ。……あ、そうか」
「そう、ここで水を汲んでおこうかと思ってね」
「朝になってからじゃ、ダメなのか?」
「朝になればすぐ出発だ。ナーエ村はここを抜ければすぐだろう? これくらいは、出来るときにしておきたいのさ」
「そうだ、ナーエ村が……早く行かないと、グロル村みたいに……」
 流れたはずの気持ち悪さが、再びソロモンの喉のあたりに張り付いた。手の平で口を塞いだソロモンを見て、バルバトスは哀れむように眉をひそめた。
「こんなことを言うのは酷だろうけれど……キミの村のことは、あまり、考えない方がいい」
「そんなこと出来るわけない!!」
 ソロモンは、バルバトスの言葉に反射的に声を荒らげた。一瞬、自身の感情が否定された気になったのだ。だが、バルバトスが指を立てて「静かに」と行動で示したのを見て、すぐに冷静さを取り戻した。
「ごめん……みんな、寝てるのに……」
「それもあるけれど、それだけじゃない。幻獣が近くにいるんだ。声を拾って寄ってくるかもしれないだろ」
 そう言われてハッとする。風の吹き抜けない森は静かだったが、ソロモンには幻獣の足音を拾うことは出来なかった。
「バルバトスは、耳がいいんだな。俺には何も聞こえないよ」
「慣れだよ。俺はずいぶんと長く一人で旅をしてきたからね。小さな音でも拾うクセがついてるんだよ。ブネやモラクスも似たようなものさ」
「そっか。……朝になったら謝らないと。たぶん、起こしちゃってるよな」
「ああ見えてウェパルも起きる方だから、言うなら彼女にも謝っておくといい。まあ彼女の場合は、元々あまり眠らない質で眠りが浅いだけみたいだけどね。というか、眠り続けるのはこのメンバーだとシャックスくらいか……?」
 ぶつぶつと神妙な面持ちで考え込み始めたバルバトスを見て、ソロモンに張り詰めたものが少し緩んだ。軽薄な人物かと思っていたが、仲間のことをよく見ている。ソロモンがバルバトスに抱いていた、彼の最悪な第一印象が覆った。
「話、戻るけどさ……本当に水を汲みにいくのか?」
「……どうしたんだい」
「一人になると、どうしても考えてしまうんだ。考えないようにするなんて、やっぱり俺には無理だよ……」
 泣いてしまいそうになるのを必死で堪えているソロモンの顔を見て、今度はバルバトスが息を呑んだ。復讐心で立ち上がった彼の心の強さを、バルバトスは無意識に過信していたのだ。魔を統べる者であるとはいえ、彼は数時間前まで世界中のどこにでもいるヴィータと同じであったということを、バルバトスは思い出す。
「考えないと、思い出さないと、忘れてしまいそうで怖いんだ。グロル村のみんなのこと、俺が覚えていないと楽しかった思い出まで消えそうな気がしてさ……」
 ソロモンの顔が、徐々に下を向き始める。
 出来るなら、前みたいな生活に戻りたいよ。
 吐き出す息と同じくらいの密度で、抱えた足で出来た空間に向かってソロモンは言葉を絞り出した。静かな森でなければ、ほとんどの者が聞き逃してしまいそうな声量だ。
 それがソロモンの出せる精一杯だった。そんな願いは叶うはずがないと知っておきながら、それを口に出さずにはいられない。けれど、自身が呟いた願いですら、今は鋭いナイフとなって胸に刺さる。
 孤独になってしまった少年に、バルバトスは、自分が掛けることの出来る言葉などひとつもないのだと知った。言葉は時に無力だと痛感したのだ。
 パチパチと木が燃える音を聞きながら、バルバトスは耳をすました。
 幻獣の足音は遠ざかっていた。せせらぎの音だけが耳に届いている。時間は、止まることなく流れ続けていた。
「――ありがとう、バルバトス。少し、落ち着いた」
 目元を腕で大きく一擦りしながら顔を上げたソロモンの表情は、心なしかすっきりとしていた。
「火の番、しておくよ。その間に水、汲んできてくれるかな」
「数分は離れると思うけれど、」
「大丈夫、バルバトスのおかげだよ」
「俺の?」
 何かをした覚えはないけど、と首を傾げると、ソロモンはまた笑った。
「色んな人を相手にする吟遊詩人でも、分からないことってあるんだな」
 今度は、憂いのない明るい笑顔だった。彼は、バルバトスが最初に思っていた程強すぎるヴィータでもないが、弱さや未熟さばかりの少年でもないのだろう。それに、ヴィータという種そのものが、言葉がなくても仲間の存在を感じるだけで安らぎを得ることのできる種であるということも確かだ。自分はこの少年に仲間だと認めてもらえたのだろうか。もしそうならば、それ以上に嬉しいことはない。そう考えると、バルバトスの顔も自然と綻んだ。
とにかく、もう心配はいらなさそうだ。バルバトスは、ソロモンが言うように水を汲みに川へ向かうことにした。
「寝物語が必要なら、いつでも声をかけてくれよ」
「はは……今はまだ、いらないかな。でも、いつか聞かせてほしい」
「もちろんさ。このヴァイガルドの話ならいつでも語ってあげよう」
「それもいいけど、俺は、バルバトス自身の話も聞いてみたいから」
「俺の話を?」
「ああ、バルバトスの話を」
「面白い話はひとつもないと思うんだけどな」
「それでもいいよ」
 勢いの衰え始めた篝火に、バルバトスに教えられた通りに小枝や落ち葉をくべながらソロモンは言った。黄色に照らされる範囲が少し広くなって、ソロモンのつま先は軽々と飲み込まれている。
「これから一緒に戦ってくれる仲間のこと、俺がちゃんと知っておきたいんだ」

 

(20200305)