夜の模型
温かいベッドの中で生き返った。そう、生き返ったのだ。雪の中で一生を終えたはずの青年は、己の体温を受け継いだベッドの中で、静かに、生を受けるように目を覚ました。
もぞりと身じろぎ仰向けになって、まぶたを手の甲で一擦りしてから、青年は弾かれるように体を起こした。足も腕も、傷一つなかった。細かい傷さえひとつも、だ。
夢でも見ていたみたいだ。もしくは、今いるこの空間が夢なのかもしれない。
青年はきょろきょろと辺りを見渡して、ひとまずベッドから降りた。ラグの上を歩くたびに埃が舞う。少し咳き込みながらも、無造作に散らばっている燭台や何かの破片を避けてカーテンの前に立つ。元は鮮やかな赤色をしていたのだろうそれはすっかりくすんでいた。
上質な生地だったのだろう。傷んではいるがカーテンとしての機能を果たしている布地を掴んだ青年は、そろりと、遠慮がちにそれを横に引いた。
太陽の光が眩しかった。空は薄暗いが、雪に反射された光が暗闇に慣れていた青年の瞳を容赦なく焼いたのだ。眼球の上のあたりに鈍い痛みを感じ、反射的に目を閉じる。カーテンを掴む両手にも、思わず力が入った。
次に目を開けたとき、青年はこれが夢ではないことを悟った。果てまで広がる銀世界が、死ぬ直前まで見ていたものと同じだったからだ。違いがあるとするならば、そこに見える世界が、鬱蒼とした木々が並び立つ森ではなく、背の低い木が一定の間隔で並んだひらけた場所であることくらいか。だが、遠くの方に背の高い木が密集しているのが見えて、自身が力尽きた場所からこの建物まで、そう遠くはないのだろうと推測した。
光から逃げるようにカーテンを戻す。青年は小さくため息をついた。
自分をここに運んだ者がいるはずだ。だが、部屋にいたのは自分だけだった。誰かがやってくる気配もなければ、足音のひとつもしない。すきま風が吹いているようで、どこからかそんな音が鳴っていた。
高くて鋭い、心細くなるような音だった。早くここから逃げ出した方がいいのではないかという焦燥に駆られて、足を一歩引く。踵で何かを蹴りとばしたが、それに構っている余裕はなかった。
元は豪奢な装飾がなされていたのだろう、建て付けの悪くなっている大きな扉を開けた。床で粉々に崩れ去っている、風化した「装飾品だったもの」が目に入る。足に当たったものはきっとそれだった。ただその存在は、青年が曲がり角の見えない廊下に圧倒されたために、すぐに彼の意識から消え去った。
庭園と思しき場所があった方角へ、ひとまず足を動かした。ふらり、ふらりと覚束ない足取りで壁に手を付きながら歩みを進める。床そのものが柔いような感覚が不安になって、思わず下を向いた。靴がきちんと履かれたままだったことに気付いただけだった。
途中で、ダイニングを見つけた。その奥にキッチンのように見える部屋があったので、青年はふらふらとそこに足を運んだ。空腹を思い出したのだ。
色鮮やかなそれは青年の思考を埋めつくすのに充分な存在感を放っていた。くすんだ銀色の調理台の上に置かれた真新しいバスケット。そこから溢れそうになっている、赤くて丸いリンゴたち。視認した瞬間に、乾ききって出なくなっていたはずの唾液が湧いたほどだ。無意識に喉が鳴り、覚えのある味が架空のものとして口内に広がる。床を踏む力が、息を吹き返したように強くなった。
赤い果実を手に取るまで、そう時間は掛からなかった。危険を一切考慮しなかったからだ。食べなければ死ぬぞと叫ぶ本能を、混乱のさなかにいる理性が制止出来るわけがない。外傷のない体が次に求めているのは、それを動かすためのエネルギーだ。それが圧倒的に不足している今、調理器具ひとつマトモに手入れのされていない、こんな場所にあることが不自然であるはずのみずみずしい果実を、口にしないわけにはいかなかった。
結論から言えば、果実は全て青年の腹に収まってしまった。食べている間の記憶なんてない。平時であれば食えたものじゃない予想通りの酸味は、今は眠気の海に倒れてしまいそうな意識の支えになっていた。
生きている心地がしている。村を出てから初めてのことだった。酸味に舌が痺れるような感覚がして、それを嬉しいと感じている。夢中になって齧っていたリンゴの音がふと耳に届いた時、じわりと涙が滲み始めた。
かみ砕いたリンゴが胃に届くころに、青年は寂れたキッチンから出た。家主には悪いが、リンゴのお代は払えそうにない。
広い廊下に戻った彼は、外に向かってまた歩きだした。明かりがないせいで、時々何かが体に当たる。そのたびに引き戻されるのだが、頭はもっぱら、この奇妙な建物のことでいっぱいだった。
あのキッチンが、ここにいた人々の食事をまかなっていたとすれば、一体何人がここに住んでいたのだろうと思う。自分が暮らしていた家との差が大きすぎて、うまく想像できなかった。こんな規模の建造物が存在していることも知らなかったのだ。
ここは、彼の知らない世界だった。
体のなにもかもが正常に戻って、現実を正しく知覚出来るようになって。
すると途端に、この先に進むのが怖くなった。生きる道へと進むしか出来なくなってしまって、けれどこのまま外に出るには、あまりに何も持っていない。もう帰る場所すらない己が、これからどこに向かうべきなのかも分からない。
悩むと足を止めてしまいそうだった。そうならないために、彼はここから出る必要があった。
足を止めてはいけない。呼吸をやめてはいけない。後ろを振り返ってはいけない。
心臓の鼓動が、皮膚を伝って全身を急かす。いやな汗をかいていた。
曲がり角。目に飛び込んできた、一際大きな扉を開けた。そこが外に繋がっているとも、そんなわけがないとも思わなかった。
手を掛けたのは、引き寄せられたからだと思う。その瞬間だけ、青年は自分自身の行動の選択に自信があった。
夜をかたちどったような人だった。夜を模型に、あるいは剥製にしたならば、きっとこんな姿をしていると錯覚してしまいそうな異様さを放っていた。
青年は、おそるおそるその人物に近づいた。棺におさめられるときのように、きれいに、ていねいに、そして飾りもののように眠っていた。
月にも劣らない輝きを持つ髪が、薄汚れたベッドのシーツの上に広がっている。しずかに、穏やかに上下する胸を見て「生きている」ことを認識する。やわらかく交差するまつげの一筋一筋が、精巧を極めた美術品のようでもあった。
よく見ると男のようだった。髪の長い男がいるということを、青年は初めて知った。
おそらく、彼が自分を助けてくれた人だ。そう思うと、少し気持ちが凪いだ。押し寄せていた不安の波がゆっくりと引いていった。
不思議な――不思議な感覚だ。
まるで世界にたった一人だけ存在する、片割れを見つけたような気分だった。赤の他人に抱く感情ではないことくらいは理解している。それでも、この感覚が間違いだとは思えなかった。
「あの、」
呼びかけても、男は目を開けなかった。
せめて一言、感謝くらいは伝えておくべきだろう。できれば、このあたりの地理についても聞きたい。そう思い、少し体を揺すってみる。中身はあるのかと疑ってしまいそうなくらい薄い腹をしていた。規則的な動きを繰り返す体は、冷え切っているのかあまり体温が感じられない。
しばらく揺すっても(おそらく)家主の男は微動だにしなかった。よく眠っているのか、まゆひとつ動かない。
諦めた青年が男から手を離そうとしたときだった。閉じられていたまぶたがうっすらと開いて、その奥の瞳が青年を見る。まつげの重なりがするすると解けていく。
「ああ、キミか」
唇の隙間が奏でた声に聞き覚えがあった。雪の中で聞いた、あの優しい指先を持つ人の声だ。
「うん、元気そうで良かった」
男は、あの時の優しさを保ったまま微笑んで、その指先で今度は青年の頬に触れた。ひやりとした温度が触れた場所を補おうと、頬が熱くなる。言葉がうまく出なかった。
男はむくりと上半身を起こした。散らばっていた髪が重力に従ってまとまりを持ち始める。
「ここの人ですか」そう言葉にするのが精一杯だった。
「一応そういうことになるかな」男は言った。
「助けていただきありがとうございました」
「お礼なんていいさ。それより、お腹が空いてるだろう」
「あ……それは、その」
「三日……いや、五日か? とにかく、それくらいは眠っていたと思うよ。何か食べた方がいい」
「そんなに!?」
「結構ひどい有様だったからね」
そう言うと、男はベッドから下りた。部屋から出て行こうとしたところを、青年は慌てて引き留める。首をかしげる男に、青年は申し訳なさそうにキッチンでの出来事を話した。
男は怒りもせずそれを聞いて、そして笑っていた。元々青年のために用意していた食べ物だったそうで、青年はホッと胸をなで下ろした。
「じゃあ、これでさよならだ」
その笑みを一切崩さず、男は言った。
「ふもとの村か、町まで送ろう。その代わり、俺がここにいることは誰にも言わないでくれ。ここでの出来事も、すべて、出来れば忘れてほしい」
タイトルはCRY(http://cry.xria.biz/)さんからお借りしました。
(20200426)